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津延美衣(つのべみえ)NY州立大学FIT卒業。米国宝石学会鑑定有資格者(GIA-GG,AJP) 運命学・自然医学・アート・アロマテラピー・食文化などの知識を元に感動的な人生を描くプランナー・エッセイスト・キュレーター兼ジュエリーソムリエール(Jewelry sommeliere) 美時間代表。

2026年6月8日月曜日

週刊NY生活No.1035 12/13/25 宝石伝説95縁起物と宝石「琵琶湖の竹生島神社の妙音弁財天と淡水真珠」15

     縁起物と宝石「琵琶湖の竹生島神社の妙音弁財天と淡水真珠」15



平安時代末期『平家物語』に登場する平経正が戦勝祈願でこの島を訪れ琵琶を奏じたところ、弁財天が感応して白龍が現れたという伝説があるが、琵琶湖という呼称は14世紀の初頭、比叡山延暦寺の学僧光宗(1274~1347)が記した文献『渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしゅう』に「琵琶の形に似たり」と表記されたことにはじまる。そこに浮かぶ竹生島の名について諸説あるが、孝霊天皇の御代(紀元前290年~215年)、『近江国風土記』逸文に登場する霜速彦命の姪である浅井姫命は、天から降りて琵琶湖の北方に島を作りそこにいろいろな植物の種を播いたところ、1番初めに竹篠が生えたので竹生島と名付けられたとある。そして産土神として祀られたが、湖水を支配する水の神ともいわれたことから後に弁財天と習合する。平安時代に入ると神仏習合が進み、御祭神に市杵島比売命(琵琶をもつ弁財天)、宇賀福神(白巳)、浅井姫命(産土神)と龍神の四柱の神様をお祀りする竹生島神社(都久夫須麻神社)は宝厳寺を神社の神宮寺として管掌されてきたが、明治の神仏分離令によりそれらは岐れ、宝巌寺の弁財天堂を神社の本殿としたことから竹生島の神は弁財天とされた。

ところで、弁財天と縁が深い宝石の一つに真珠があげられるが、琵琶湖の天然淡水真珠はとても希少なもので滅多にお目にかかれない。そして日本最大の湖とされる琵琶湖では約90年前からこの湖特有のイケチョウガイを母貝とする淡水真珠の養殖が行われてきたが1980年以降、水質悪化などの影響で生産量が激変するも、その美しい光沢と一つ一つ違う色や形の個性が見直され、復興が進められているがこれらも現時点では希少な存在となっている。海で育つアコヤ真珠や南洋真珠には中心に核があり(養殖の場合は人工的に埋め込む)それを痛みに感じる貝は、それを覆うようにだす分泌物が真珠層となり美しく丸っこい真珠が誕生する。しかし核の大きさに対してその層は薄いため、傷・衝撃・汗などに弱く経年変化も伴う。一方、アジア地域の綺麗な水質の川や湖で、約3~7年という非常に長い年月をかけて育つ繊細な宝石の一種の淡水真珠には核がほとんど無いため歪な形が多いが、全てが真珠層で形成されているため、核をもつ真珠の弱点は殆どなく非常に扱いやすく日常使いに適する。


週刊NY生活No.1031 11/15/25 宝石伝説94縁起物と宝石「琵琶湖の竹生島八臂弁財天(宝厳寺)」14

       縁起物と宝石「琵琶湖の竹生島八臂弁財天(宝厳寺)」14


 滋賀県の琵琶湖北部の島、竹生島明神と弁才天が宝厳寺と都久夫須麻神社に分かれて祀られるようになったのは明
治時代初期の神仏分離令以降のこと。それまで竹生島では平安時代から近世まで神仏習合の信仰が行われていた。それを物語るように、寺の本堂である観音堂は直接2本の渡り廊下で都久夫須麻神社の本殿と結ばれ、両者がもともと不可分の関係であることを示している。奈良時代、神亀元年(724年)宝厳寺は開山した僧の行基により国家安泰、五穀豊穣、万民豊楽のため開創された。天平三年(731)聖武天皇の夢枕に大内裏に示現し、天皇の命により行基が天照大神の長男にあたる天忍穂耳命(あめのほしほみみのみこと)と大己貴命(おおなむちのみこと)=大国主命らを祀ったのが始まりとされる。弁財天の由縁は、仁明天皇の承知元年(834)に慈覚太師が久しく眼病を患って悩んでいると天女が枕元に立って「我こそ竹生島の弁財天であるが、この薬を用いよ。そして我が姿(小像)をここに残して置くからこれを竹生島に祀れよ」と告げられ、目がさめて与えられた薬を服用すると眼病は立ちどころに平癒した。感激した慈覚大師が竹生島に祀ったその御本尊となる弁財天像は身丈約18cmの秘仏といわれ、普段は非公開で60年に一度公開(次回の開帳は2037年)されるという。現在お寺に行くと拝める弁財天はその分身にあたる。また宝厳寺は日本三大弁財天の中でも最も古い歴史を持つことから唯一大弁財天と称される。「江ノ島与願寺」(現在の江ノ島神社の前身)、「宮島(厳島神社)」も竹生島の影響を受けて創建され多くの武将や人々から信仰を集めて、さらにその影響は各地の弁財天へと広がった。宝厳寺は中世、豊臣秀頼による火災後の復興があったが、明治時代の神仏分離でしばらく本堂が失われた状態が続くも信者の強い要望などがあり廃寺の危機を乗り越えてきて1942年に現在の本堂が再建された。その本尊である弁財天は、『弁天5部経』『金光明最勝王経』などから推すと八臂弁財天で、その手には矛・宝珠・輪宝・弓・宝杵・鍵・矢・剣をもち、頭には宝冠を戴く宇賀神、鳥居(ない場合も)を頭上に載せた日本独特の宇賀神弁才天となる。

その手にもつ輪宝は元はインドの神様の宝物で、スピリチュアルな問題から身を守ってくれるという。


週刊NY生活No.1027 10/18/25 宝石伝説93縁起物と宝石「日本の神仏と習合した弁財天2」13

        縁起物と宝石「日本の神仏と習合した弁財天2」13

 

 日本古来の民族思想の中には龍蛇を神とし祖先とする思想が潜在するが、弁財天はそれとすこぶる関係が深く特には龍蛇そのものを弁財天とみることもあり、仏教の女神の中で一番日本に同化しやすい性質を持っていた。また当時の大楽思想から発する現生利益の希いの現世極楽のイメージは、弁財天を通じて龍宮にも重なるものがあった。宗像三女神を祀る北九州の島やその対岸、安芸の厳島、牡鹿半島南端方向にある金華山島、そして琵琶湖に位置する竹生島など諸所の池沼の中島や水辺の風光良くして神聖な場所と見られる所には、仏教で説く天上界であり極楽浄土として見なされ弁財天の居ます場所と考えられ龍宮の乙姫様のイメージにも合致した。また仏教で説く死後の極楽浄土ではなく、生きている時点で極楽を願う日本の古い伝承である龍宮世界の具現であり、日本古来の神と習合した弁財天にそれを託す希望があった。平清盛は青年時代の不遇の頃に弁財天に祈り位人臣(くらいじんしん)を極めて富裕になってから、奉賽のために現実の極楽浄土として厳島神社を龍宮に見紛うほど壮麗に建立した。

 弁財天は、このほかに農耕の豊穣を希う宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)や稲荷神と結びつき、大衆の理想郷を託す神として全国に広く祀られるようになり仏教・神道の別なき必須な神の存在であった。そして美貌の神・女性像としても理想的で、日本古来の女性尊重には相応しい対象であり、馴染みも深く女菩薩思想に適合していた。一方で、釈迦が悟りを開く直前までは夜叉などが恐ろしい姿で威嚇したり妖艶な女性の姿になって誘惑したという説話から、当時の一部の僧侶によって女性は軽視の風潮とともに不浄ゆえ成仏できぬとの思想もあった。だが、法華経「提婆達多品第十二」の後半部分に、即身成仏の証し:龍女が自らの男子の姿に変身し、たちまち仏となって妙法を説いたという説話がある。さらに一休和尚が遊女を拝したと同じく女性尊重で理解者であった当時の知識階級の1人者である九条兼実は『玉葉』の中で、
平安時代後期の天台宗の僧 澄憲僧都(ちょうけんそうず)の法話として、「一切の女人は三世諸仏の母であるが、一切の男子は諸仏の父ではない」という意味のことを記している。



週刊NY生活No.1023 9/20/25宝石伝説92縁起物と宝石「日本の神仏と習合した弁財天1」12

        
縁起物と宝石「日本の神仏と習合した弁才天 1」12


 奈良時代インドから伝承された、ラクシュミー女神を起源とする吉祥天は、当時、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説(神道の神々は、仏教の仏や菩薩の仮の姿であるという教え)があったにもかかわらず、富貴繁栄や家庭を護る神として仏教に取り入れられて、貴族階級の信仰を集め主尊として祀られるようになった。ところが平安時代に入ると『金光明最勝王経』に説かれている、弁舌・音楽・学問・除災・幸福を与える神である弁才(財)天がそれを凌ぐようになる。それは、吉祥天がインド以来の神として日本の神に習合しないのに対して弁才天は、宗像三女神の市杵島姫命や、食物・富貴・名誉・福寿を与えてくれる穀物の神であるウカノミタマノカミ(日本神話に登場する女神で『古事記』では宇迦之御魂神、『日本書紀』では倉稲魂命と表記する)と習合したことで、土地や水に縁があり関係する人々の信仰を捷ち取り、ほとんどの人間の願い欲望を充す神とみなされたからだ。神道系の信仰と仏教系の信仰が合体(神仏習合)し、にわかに弁才天信仰が盛んになったと思われる。ちなみに弁才天は、日本の神道系の神と習合する以前は、奈良時代の高貴女性の盛装姿(日本最古の像は東大寺の法華堂に安置されている唐服姿の八臂弁才天立像)で表現されたが、習合してからは天女形のスタイルになってしまったがゆえに、神道系の神が弁才天として民衆に馴染むのも早かったといわれる。『金光明最勝王経』によると日本において、インドにおける河水の神格化から生じた神であるサラスヴァティ–を元とする(河水のごとく流れて常にささやきの音響を発するがごとく能弁にて妙音を発するその手段として琵琶を弾ずる)ニ臂の「妙音弁才天」と、そのヒンドゥー教のサラスヴァティ–像とはまったく異なり八臂をもって自らを荘厳し、矛・宝珠・輪宝・弓・宝杵・鍵・矢・剣をもち、頭には宝冠を戴く「ハ臂弁才天」などがおもに存在する。その姿はまるで戦闘神のようだが、それらは人の幸せを妨害する悪神夜叉類を退治追い払う、怠惰なよこしまな気持ちを破壊する、福徳を希うことを邪魔する悪しき神を征服するための武器だという。後にウカノミタマノカミと習合すると、宇賀神、鳥居(ない場合も)を頭上に載せた日本独特の宇賀神弁才天となって左手には如意宝珠をもつ。

週刊NY生活No.1019 8/16/25 宝石伝説91縁起物と宝石「吉祥天女と如意宝珠」11

         
 縁起物と宝石「吉祥天女と如意宝珠」11


 伝承された日本最古の仏教説話集といわれる『日本霊異記』は、平安時代初期に書かれた『日本国現報善悪霊異記』の略されてた呼び方で、作者は私度僧となってから妻子とともに俗世で暮らし、後に薬師寺の官僧となった景戒(けいかい)である。その私度僧は、貴族を相手に袈裟をつけ念仏を唱えてさえいれば食べていかれる僧とは違い、善男善女のささやかなお布施だけが頼りだった。景戒は中年以降、各地を遍歴するうちに自然と伝承や世間話が耳に入ってきたことをネタにした話を説教の折に入れて聞き手を感心させ、その話題の広さと語り口のうまさで人気タレントだったといわれ、奈良~平安時代初期の人生と実生活の苦しみが滲みでた悪報説話を入れ、当時の人々の様子が伝わってくるところが『霊異記』の魅力だ。一方で、説話集(116話)のうち「夢」を題材(10話)とするなかで、最も興味をひかれるのは中巻第13といわれる。その話は、和泉の国の山寺に吉祥天を祀ってあったが、聖武天皇の御代に一人の優婆塞(うばそく=半僧半俗の行者の在家僧)がやってきてこの寺に住み、天女の像を一目見て恋に陥り、朝晩「天女の如き容好き女を我に賜へ」と祈った。するとある夜、天女の像と婚(くなか)う夢を見たので翌朝になって像をよく見ると、その腰衣に不浄のものが染みついて汚れていた。行者がつくづく恥じて「天女さまと似た人を願っていたのに、天女さまご自身と交わるのはどういうことでしょうか」と声に出して話していたところを聞いていた弟子は非難され追い出された。そして逆切れした弟子は里に下りると、村人にこのことを吹聴して回った。それにも応じることなく作者(景戒)は「信じることを心深くもてば神仏にも通じる」といった楽観的な感想まで加えている吉祥天女を題材にした内容となる。

 そのモデルとなった吉祥天女は、中国唐時代の豪奢な貴婦人の姿が特徴で、左手には意のままに願いを叶えるとされる「如意宝珠」を持ち、右手はその宝珠を差し出すような仕ぐさをしている。これは信濃国(現在の長野県)に伝わる優婆塞吉祥天画像といわれるが、一般的には奈良時代、麻布に描かれた「薬師寺吉祥天画像」(国宝)のことで奈良県の薬師寺に所蔵されている。ところで、日本の仏像の中で最も美しいと称賛されるのは、鎌倉時代初期に造られた(作者不明)とされる京都の浄瑠璃寺に鎮座する宝飾品を身に付けた絢爛豪華な「吉祥天(女)立像」(重要文化財)だ。



週刊NY生活No.1015 7/19/25 宝石伝説90縁起物と宝石「吉祥天女と宝飾品」10

          
          縁起物と宝石「吉祥天女と宝飾品」10


 天照大神や卑弥呼など、最近の古墳発掘例から女性の首長と思われる報告が多いのは、古来から女性を尊敬し神格化して仰ぐ傾向が強いことを示しそれは仏教伝来後も続いた。特に奈良時代、女帝となった光明皇后は観世音菩薩に見立てられるなど人々の仰ぎ拝む存在であった。平安時代、貴族たちは王朝文化を謳歌し極楽浄土を現実のものと希うために寺院を荘厳し現世利益を願ったので、人に幸せを与える天部の神への関心はさらに強まった。『金光明最勝王経』の中の大吉祥天女品にその功徳が説かれている吉祥天は至福をもたらす神で、主尊として特に宮中や一部貴族に厚く信仰されたために国家的見地からの信仰として、五穀豊穣鎮護国家のために祈られ、吉祥悔過会(毎年正月に、吉祥天を祀って災いを払い、福徳を招くことを祈る法会)が行われ盛んに信仰された。ちなみに弁財天信仰はそれに次いで盛んであったが、吉祥天信仰を凌ぐようになったのは平安時代末期からである。また吉祥天女は、七福神の中で紅一点となる弁財天の代わりに入るケースや、寿老人と福禄寿が同体異名とされるとその代わりに加えられ紅ニ点の七福神になる場合もある。吉祥天とは、美、幸運、繁栄、豊穣をもたらすヒンドゥー教の女神ラクシュミー(宇宙の創造・維持・破壊の三大神の中の維持を司るヴィシュヌ神の妃)を起源とし、仏教において「大吉祥天女」と呼ばれ父は徳叉迦龍王、母は鬼子母神とあり、日本においては毘沙門天の妃とされ、特に富と繁栄、家庭の安寧、金運向上、美貌をもたらす。その吉祥天女を題材にして作られた話が、日本最古の説話集『日本霊異記』(平安初期、延暦~弘仁の時代に生きた南部薬師寺の僧「景戒(きょうかい)」の編した仏教説話集)にある。この説話集は景戒の人生において感動し共鳴したことなどの条々を書き記したもので、赤裸々で生々しい人生観に裏付けされた人情の機敏をついた世間話を百十余話集めたものとなっている。そもそも日本の仏教は管の保護と統制を受けて発展を遂げており、坊さんになるのにも官許を要したが、そこからはみ出した坊さん志願者は、勝手に頭をまるめて「私度僧」となったがその1人が景戒で、しかも妻子もちであった。

ところで、吉祥天が豪華な装束に、宝冠、瓔珞、腕輪など身につけているのは、美しさや富そして幸福を象徴する重要な要素となっている。

 


週刊NY生活No.1015 7/19/25 宝石伝説89縁起物と宝石「諸天善神と宝飾品」9

          
           縁起物と宝石「諸天善神と宝飾品」9


 8世紀頃、義浄(唐の僧)自らインドから招来し経典を新たに漢訳した『金光明最勝王経』が日本に伝わると、聖武天皇は写経して全国に配布した。そして741年、仏教による国家鎮護のため各地に国分寺の建立を命じた。この経典の主な内容は、空の思想を基調とし、この経を広め読誦して正法をもって国王が施政すれば国は豊かになり、四天王をはじめ弁財天や吉祥天、堅牢地神(大地をつかさどる神)などの諸天善神の功徳が得られ国を守護するとある。本来の仏教は、人間が善行を積み修行して到達する悟りを得ることを目的とする。ところが、民衆が求めている現世利益を否定してしまうと布教上思わしくないことから仏教教団は発展していく上に、因果応報的な考えを加味した修行と善行を積んで信仰すれば現世にて利益があるといった方針に変えていく。したがって、主尊である如来や菩薩の護法神としての脇侍であった天部の神々は主尊として祀られるようになった。それらは、梵天・帝釈天・金剛力士・四天王・十二神将・十二天・八部衆その他と、女神は、吉祥天・弁財天・摩利支天・伎芸天・荼吉尼天・訶梨帝母。そのうち現益能力が最も優れる吉祥天と弁財天は、にわかに日本の人々に厚い信仰をうけるようになった。それは『記・紀』にある天照大神や、『魏志』倭人伝の卑弥呼など、元々昔から女性を尊敬する観念が深く根付いているからだ。一方で、日本古来の信仰も現世利益を願う神が対象であったから仏教が入って来ても天部の神々が好まれ、特に美しく慈悲溢れる麗容である女神には馴染みやすく親しみを感じていた。

 ところで、如来以外の菩薩や諸天善神などの仏像を見ると、宝冠をかぶり、瓔珞(ようらく)=ネックレスを付け、腕釧(わんせん)=ブレスレット、臂釧(ひせん)=上腕の飾り、足釧(そくせん)=足飾りなどの宝飾品を身に付けている。一般的には、出家前の王族だったころのお釈迦様の姿を象徴し、慈悲深い心を表現したとなっている。実際に、法華経にある七宝(金・銀・瑠璃=ラピスラズリ・玻璃=クリスタル・硨磲=しゃこ貝・真珠・玫瑰=ロードクロサイト)や、仏教用語の金剛不壊(きわめて堅固で決して壊れない)が由来となったインド原産の金剛石(ダイヤモンド)などを身に付けていた可能性は高い。おそらく当時から、宝飾品としてだけではなく、守護石としての役割を兼ねて身に付けていたと思う。


週刊NY生活NO.1007 5/17/25 宝石伝説88縁起物と宝石「七福神と蛇のネックレス」8

           

          縁起物と宝石「七福神と蛇のネックレス」8


 インド伝来の仏教経典『仁王教』の中にある「七難即滅、七福即生」という言葉が元となった、古くから日本人に「幸福は海の向こうからやってくる」という考えから由来する『七福神』恵比寿、大黒天、毘沙門天、福禄寿、寿老人、弁財天、布袋は、それぞれがヒンドゥー教、仏教、道教、神道など様々な背景をもつ。大黒天はヒンドゥー教のシヴァ神の化身(マハーカーラ神)で、日本古来の大国主命と習合され、大黒柱と現されるように食物・財福を司る神となった。ちなみに、伝教大師最澄が比叡山にてはじめて大黒様を台所の神として祀ると、やがて徐々に民間に広まっていった。唯一日本由来の神である恵比寿は、大国主命の息子「事代主神(コトシロヌシ)」と言われて、古くは「大漁追福」の漁業の神として祀られ、やがて商売繁盛、五穀豊穣をもたらす福の神とされた。この二神は親子関係であることから、恵比寿・大黒とセットで並ぶ所以となったようだ。また、初期の恵比寿は毘沙門天を本地とすると考えられており、この三神はともに信仰されるようになった。毘沙門天はヒンドゥー教のクベーラ(福徳増進)神であったが、仏教に取り入れられると戦いの神として平安時代以降、京都の鞍馬寺の本尊として祀られ信仰される。元ヒンドゥー教のサラスヴァティ神である仏教に取り入れられた、七福神の中で紅一点となる弁財天は、音楽・弁才・財福・智慧のある神として選ばれた。そして、平安末期~鎌倉初期の頃、近江の竹生島の弁天信仰が盛んになると、毘沙門天の代わりに「恵比寿・大黒・弁財天」を信仰するケースも増えていった。室町時代、中国から長寿と福禄をもたらす道教の福禄寿・寿老人(ともに南極星(カノープス)の化身の南極老人で同一とみなされ、七福神にもう一神加えられるケースもある)と、布袋尊(唐の末期に実存した仏教の禅僧)が日本にやって来て認知された。そして室町時代末ごろ、それらをまとめた七柱の神仏が近畿地方から発祥した。その頃から始まった、正月に行われる七福神を祀る寺社巡りの行事は、縁起を呼ぶお参りとして有名で、現在でも絶大な人気となっているが、普段の日に巡ってもご利益は期待できるそうだ。さらに、正月枕の下に「七福神の乗った宝船の絵」を入れておくと縁起の良い初夢が見られるといわれるが、財運に関しては普段から弁天様の眷属である蛇(巳)の宝石を身に付けると効果があるそうだ。


2026年6月7日日曜日

週刊NY生活No.10034/19/25 宝石伝説87縁起物と宝石「天赦日に蛇の指輪」7

           
           縁起物と宝石「天赦日に蛇の指輪」7

 

 白蛇は、神(弁財天)の仕えとしての存在を私たちに知らしめる意味で実存の姿で現れたとされる。ところで弁財天とは、インドの最も古い聖典『リグ・ヴェータ』において、聖なるサラスヴァティ川の化身で地球上の大河を司り、息とし生きるものの生命の根源である水の神様サラスヴァティのことで、よどみなく流れる水のように弁舌がさわやかであるとの連想から「妙音天」「弁才天」「大弁功徳天」などと意訳される。いわゆる流れるもの全てをになう(言葉・弁舌や知識、音楽など)女神のことで、日本には仏教伝来時に『金光明最勝王経』を通じて中国から伝えられた。この女神は、神仏習合思想の本地垂迹(ほんじすいじゃく)にて、日本神話に登場する宗像三女神の一柱である市杵島姫命と同一視されることが多く、さらには古くから日本人に「幸福は海の向こうからやってくる」という考えがあったことに由来する『七福神』(七つの災難が消え、七つの福が生まれるのを意味する仏教経典『仁王教』の中の「七難即滅、七福即生」という言葉が元になったという)の一尊として宝船にも乗っている。

 インドのヒンドゥー教による宇宙の成り立ちと根源は、創造(ブラフマー神)・維持(ビシュヌ神)・破壊(シバ神)で、これら3神は一体と考えられトリムールティ(三神一体)と呼ばれ、紀元前500年以降に定着されたと考えられている。サラスヴァティはそのうちの創造の神ブラフマーの妻で、日本に入って来てから、技芸ごと、財運=商売繁盛などをもたらす胡座を描いて流暢に琵琶を奏でる妙音弁財天と呼ばれ、白蛇は弁財天の一部でもあり眷族となって、本来の不老長寿の力を発揮し弁天さまを支えながら財運の部分を掌る。国内には弁財天や白蛇神を祀る神社仏閣が多く点在しており三大弁財天は、安芸の宮島大願寺、近江の竹生島宝巌寺、江ノ島神社といわれ、それらに天川村の天河大弁財天社、金華山の黄金山神社が加わり五大弁天となる。一方で、八本の腕にそれぞれに宝珠や輪宝、剣・鉾・鉤(かぎ)・長杵・鉄輪・羂索(けんさく)などをもち、頭上には宇賀神(うがじん)(蛇の体と年老いた男の顔の姿の穀物神)を頂く、財運向上や金運上昇、開運、勝負運などのご利益があるとされる八臂弁財天が存在する。

 さて、天赦日(中国の伝統的な暦で、吉祥を招く日として重要視されている)に蛇の指輪をすると幸運を引き寄せると言われている。

週刊NY生活No.999 3/15/25 宝石伝説86縁起物と宝石「双頭をもつ蛇の指輪」6

         
                         縁起物と宝石「双頭をもつ蛇の指輪」6


 陰暦の10月の別名は「神無月」だが、出雲地域以外のことを指す。それに対し、出雲地方だけは「神在月(かみありづき)」と呼ばれるその訳は、その期間、出雲に全国の神々(須佐之男命や大国主命など「国津神」系を指し、天照大神などの「天津神」は除く)が集まり一堂に会するからだ。出雲大社の西方約1キロの稲佐の浜では全国の神々をお迎えする古式豊かな「神迎(かみむかえ)神事」が執り行われる。その後、到着された神々は御使神「龍蛇神」さまを先導として出雲大社まで御神幸(みしんこう)する。それから拝殿にて奉迎の神迎祭が行われる。この神在月において、特に重要視されるのが「龍蛇神」さまの存在だ。龍蛇神は、海蛇の神様でもあり、水に住む「龍」から火難、水難除け、地に住む「蛇」から土地の災難よけの2つの信仰が融合し、田んぼや農作物を守る存在となり日本各地で稲作と深い結びつきをもった。また、蛇は古来より再生や生まれ変わりを象徴し人々はその力に畏敬の念を抱いてきたとされる。現実に、蛇は世界中で4,000種以上が生息しており、国内では猛毒をもつマムシやヤマガシを含めた約8種類となる。屋根裏などに住みつきネズミなどを捕獲してくれることから家の守り神として大事にされてきた、気性がおとなしく毒を持たない代表的な日本固有種でくすんだ緑色した、2メートルの全長にもなる最大なアオダイショウは、金運アップや子孫繁栄、健康・長寿を暗示する縁起の良い存在で幸せをもたらしてくれると信じられてきた。さらに、神社などでご祭神として崇められてきた世界的にも非常に珍しく貴重で学術的評価も高いとされる白蛇は、アオダイショウのアルビノが遺伝的に固定している種で、目はルビーのように赤く、全身は白く光沢があり清楚な姿でとても神秘的だ。およそ260年前に書かれた「岩邑年代記(がんゆうねんだいき)」によると、白蛇は今から約400年前、岩国に移封された藩主吉川広家(きっかわひろいえ)が錦見一帯で米作りに努めたころ、多くの米倉でネズミを餌にしていたアオダイショウの色素細胞のない変種として遺伝し生まれてきたとされる。そして当時の人々がこの珍しい白蛇を有益で幸運を呼ぶ家の守り神として、その数を増やしたと考えられている。

 さて、ヘビの頭が外側は厄除けになり、内側に向けると金運アップになる双頭指輪は、画竜点睛の思いが込められた逸品だ。

週刊NY生活No.995 /2/15/25 宝石伝説85縁起物と宝石「巳(蛇)と指輪」5

            
           縁起物と宝石「巳(蛇)と指輪」5


 今年(2025年)は2月3日から、十干の「乙(きのと)」と十二支の「巳(み)」が組み合わさった干支「乙巳」となった。十干は中国でもともと一から十を数えるために使われてた言葉で、陰陽五行にも通じる考え方から5つの要素の木・火・土・金・水にそれぞれ「陽=兄(え)と「陰=弟(と)」があり、合わせて干支(えと)とした。乙は「木の要素をもち、草木がしなやかに伸びて横へと広がる様子の意味。また巳(み・へび)は、神様の使いとして大切にされてきた生きもので、脱皮を繰り返すことから不老不死のシンボル。そこから、「乙巳」の年は、昨年の節分から今年2月2日までの「甲辰(きのえたつ)」がもつ意味合い(力強く、陽気で積極的なエネルギーに満ち溢れ、大きな動きがあり良い方向へと変わる。さらに、あまねく光に照らされ急速な成長と変化が起きる)を引き継いで、再生や変化を繰り返しながら柔軟に発展していく年になるといわれている。日本の「今昔物語」にて、雷が発生すると龍のような姿の雷が大きな音とともに落ちると周りがふるえることから、振動の意がある「辰(ふるう)」は「龍」に喩えられ「辰」=「龍」になったとのこと。インドの神のナーガ(蛇神)は仏教に取り入れられ、中国古来の龍神信仰と習合して龍王となった。その龍は、角・四足・鱗のある蛇体で、水中に住み雲や雨を起こしたり飛行して稲妻を放つ。この龍が日本に伝来し、蛇信仰に影響を与えていく。そして仏教に取り入れられた龍は仏法を守護する八部衆に数えられ、『法華経』では八大龍王として説かれている。八大龍王の力を借りて雨を降らせる祈雨の法が僧侶によって行われていくと、その信仰は民間に伝わり龍神に雨を乞う行事が全国的に広まっていくが、水をつかさどる性格は龍と蛇は重なりあい、「龍蛇神」として人々の間でも信仰されるようになった。そもそも龍(辰)と蛇(巳)は切っても切り離せない関係で、四文字熟語にも登場する。それらは、「辰巳天井」(干支にちなみその年の相場展開を言い表した高値を付けるの意)「辰巳言葉」(江戸時代に深川の遊女や芸者が威勢のよさを売り物にするため用いた「ありんす」「ござんす」など)「辰巳下がり」(言葉や行動が柔らかく洗練されている様子を指す) なお、「辰巳上がり」とは粗暴な言動を指す。

 さて、蛇は不老長寿を連想させることから、縁起の良い白金や黄(金)による蛇の指輪などを普段から身に付けるとお守りになる。

2025年2月3日月曜日

週刊NY生活No.9911/18/25' 宝石伝説84 縁起物と宝石「龍と如意宝珠(血赤珊瑚)」4

        
         縁起物と宝石「龍と如意宝珠(血赤珊瑚)」4

 

 天台宗の開祖である最澄は、法華経を教義として「誰でも平等に成仏できる」という考え方を大切にし、仏の教えの根本は一つであるという「法華一乗=全ての仏教は大乗の悟りに至るため」の思想を展開した。法華経の「薬草喩品第五」に三草二木の喩えがある。それは、大小様々な草木(衆生をさす)が生い茂っている森林(世の中)に、雨は平等にあまねく降りそそぐという一乗の教えだ。そして草木はみなそれぞれの大きさ(今世で授かった己の器)にしたがって潤い共存共栄し生長していく。すなわち成仏とは、世の中の真理(自分が存在している境遇)に目覚め、真実を見抜く洞察力を磨き、今世での己の器を理解して最大限にそれを活用し前向きに生きていくための智慧をだすこと。ちなみに大乗とは、多くの者が一緒に目的地に到達する乗り物をさす。また、テーブル上のご馳走を皆んなで頂き喜びをシェアする大欲のことだ。

「提婆達多品(ダイバダッタホン)第十二」にて、女の性は成仏が難しいとされるなか、娑伽羅龍王の第三女龍女がお釈迦さまに如意宝珠を奉納したことにより悟りがひらけ(六道の解脱)ができた。龍神様がもつ如意宝珠には天界(物質世界)において絶対無二の効力がある要素が含まれているのに対し、菩薩界の地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、如意輪観音、吉祥天などが手に持つ如意宝珠の意味合いはもっと精神的な要素が大きく、お寺や舎利塔の屋根に宝珠の飾りを取り付けたり、橋の欄干の親柱に「擬宝珠(ぎぼし)」がつけられるのは病を治したり災いを退ける力などになる。

 ところで、昇龍は運気上昇、降龍は幸福を届けるという全てのエネルギーの源。陰陽五行(木・火・土・金・水の5元素)説の思想によると、青龍は「木」にあたり東方を守護。仕事運・勝負運を高め、商売繁盛。赤龍は「火」にあたり南方を守護。意欲・勝負運が高まる。金龍は「土」にあたり中央を守護。五穀豊穣の神で金運・財運を高める。白龍は「金」にあたり西方を守護。精神面・物質面から金運・仕事運・結婚運を高める。黒龍は「水」にあたり北方を守護。人間関係を守り健康運を高める。

 さて、龍は王朝時代、東アジアにて最高位の象徴王に与えられ、一般的に男性が女性に求愛するとき簪(かんざし)をあげる風習があったが、当時、王后に贈られた宝珠の血色珊瑚(幸福・長寿の意味)をくわえる龍(純金七宝仕上げ)の簪は特別な逸品となる。


週刊NY生活No.988 12/14/24' 宝石伝説83 縁起物と宝石「漆の堆錦(ついきん)加飾法による龍」3

     
      縁起物と宝石「漆の堆錦(ついきん)加飾技法による龍」3


 如意宝珠はどんな願いもかなえる龍の珠として、世界的にも有名な日本の漫画作品「ドラゴンボール」のモチーフにもなった神通力の源といわれる反面、思考はさまざまな煩悩を生む源でもあるため龍は宝珠を持っている限り悟りを開くのは難しいとされる。それは仏教が最終的に目指すものが地獄→餓鬼→畜生→阿修羅→人間→天を六道輪廻といいそこから解脱することで、その後の声聞→縁覚→菩薩→仏界と入っていくことを理想とするから。これらすべてを合わせて十界互具(じっかいごぐ)という仏教の教えになり、私たちが何か願いごとをするときに思わず手を合わせる合掌につながる。さらに地獄界~仏界まで同じところに存在しており、十界のそれぞれに他の九界が備わっていることを意味する。例えば私たちの人間界において、とても考えられないような悲惨なことが起こっている様子は地獄界、おもに本能的生命を維持する行いをするのは畜生界、争い(戦争)が起こっている現象は阿修羅界、生命を尊重しながら精神的な満足を追求するのは人間界、そして物質や精神的なものが満たされている現象は天界となる。その六道の最終的な修練となる天(上)界において、如意宝珠は絶大な効力を発揮する要素となるのだ。

 ところで西暦574年に生まれ、法華経を読んで悟りを開いた中国のお釈迦さまといわれた天台大師の生まれ変わりとされる聖徳太子は、法華経の注釈書をつくり仏教精神にもとづく十七条憲法を定めた。その後、伝教大師最澄上人は天台大師の教えを学び、聖徳太子の理想を日本全国に広めるため比叡山に天台宗を開いた。そして法華経を中心とする天台教学(理想と実践哲学)を打ち上げ、『法華三大部』という今でも多くの仏教教団に深い影響を与え続けている本を世に出した。その法華経にて、釈尊の産湯に立会い甘露水を注ぎ祝い、釈尊が霊鷲山で法華経を説いた際に拝聴したその後、仏教の守護神となった八大龍王「難陀(最も優れた龍王と称される)」「跋難陀」「娑伽羅」「和修吉」「徳叉迦」「阿那婆達多」「魔那斯」「優鉢羅」のことが語られている。

 さて、龍神様はアジア地域全般で縁起物として昔から珍重されているが、中国から伝承された沖縄の琉球漆器に模様が浮きあがる日本独自の堆錦加飾技法により、ボールペンの表面を勢いよく覆う龍神様が蘇った。


週刊NY生活No.984 11/16/24' 宝石伝説82 縁起物と宝石「龍と如意宝珠(翡翠)」2

         



                      縁起物と宝石「龍と如意宝珠(翡翠)」2


 2024年の干支は「十干」と「十二支」を組みあわせた甲辰(きのえたつ)。その組み合わせは60種類あるので今年の十干の「甲」と十二支の「辰」が重なる60年に一度の年となる。「甲」はもともと亀の甲羅の「硬い外皮」を形容した漢字で、「よろい」や「かぶと」などを意味するようになった。その起源は、紀元前11世紀から16世紀にかけての中国の殷(いん)の時代にさかのぼる。甲は古代中国の歴である十干の第一番目の文字にくる優勢であることを表す記号であることから、契約書を交わすとき当事者の関係や順番を示す場合に「甲・乙」という表現が使われる。一般的に、甲はお客様や貸主などの立場が上の場合、乙は事業者や貸主などの立場が下になるときに用いられる。さらに「甲乙つけがたい」という言葉には、第一と第二の優劣を決めづらいという意味があり、かつての学校の成績(甲・乙・丙・丁)でいう甲と乙の差がつけにくい意もある。そして、十二支の五番目の干支となる「辰」の語源は、振るうという意味で草木が整った状態を表しているとされるのになぜ動物の龍(竜)が当てはめられたのか。後漢(中国)の時代の「論衡」という著書に「雷龍同類」という文言があるが、雷が起こると龍が天に昇るという伝説からきているとのことで、確かに雷が空を走る様子は龍の姿にも見える。日本の「今昔物語」においても龍が出てくる話では雷が発生する。龍のような姿の雷が落ちると大きな音とともに周りがふるえることから振動の意がある「辰(ふるう)」につながりそれで「辰」は「龍」に喩えられたという説があることには納得がいく。ちなみに、「龍」は旧字体、「竜」は新字体および常用漢字で生物上の意味は同じとなる。

 ところで、龍が口にくわえたり手に持っている如意宝珠は、「意のままに」という意味を持つ「如意」と宝物を意味する「宝珠」を組み合わせた言葉で仏教発祥となる。サンスクリット語では思考を意味する「チンタ」と珠を意味する「マニ」を合わせた「チンタマーニ」と呼ばれるが、仏教においても、感情や感覚をどう受け止めるかは思考次第で、苦を楽にとらえることもできる「世界を変える力を持つ宝の珠」となる。

 さて、ペンダントの龍が手に持つ珠は、東洋のエメラルドと呼ばれる美しい緑色の翡翠(ひすい)で龍と深い繋がりがある相性が良い組み合わせとなる。龍体そのものや如意宝珠に用いると、富と繁栄、長寿の意味合いがより増すとされる宝石だ。


週刊NY生活No.980 10/19/24' 宝石伝説81 縁起物と宝石「龍とタイガーズアイ」1

          
        縁起物と宝石「龍とタイガーズアイ」1


 干支は、十干(天を司る、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と、十二支(地を司る、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)の2つの要素を組み合わせた60を周期とする数詞が本来の意味となる。例えば、今年2024年生まれの子どもの干支を聞かれたとき、甲辰(きのえたつ)と答えるのが正しい。昔から数え年で61歳を迎える還暦で、赤いものを身につけお祝いをしてもらう習わしがある。人間は十干(天)と十二支(地)の組み合わせで生まれてくるので、十干と十二支をかけた120年が私たちの寿命となるようだ。60~61歳はその折り返し点となり、それまで生きてきた感謝の気持ちと酸いも甘いも噛み分けてきたことをこれからも活かして生きていくことの願いが込められたのが還暦のお祝いとなる。さらに、この年齢を「耳順」と呼ぶのは、人生の修養を積んでやっと他人の言葉を素直に受け入れらるという『孔子(こうし)』が晩年に語ったことからくる。すなわち、天から与えられた使命感が分かる年になったということだ。それ以降も、70歳の(古希)~100歳の(百寿)などの長寿のお祝いは続くそれらを節目年齢という。

 話は変わるが、その年の干支を部屋に飾ったり持ち歩くことは福を招き、無病息災や厄除け祈願の意味があると同時に年神さまをお迎えするという意味もこめられていることから、年始に神社仏閣へお参りに行くとその年の干支にちなんだ縁起物が並ぶ。なかでも十二支の辰(龍)はもっとも縁起の良い干支と言われており、さまざまな願いを叶えてくれるだけでなく「昇り龍」といわれるようにあらゆる物事を上昇させ、いい方向へ導いてくれる力があるとされている。さらに、十二支のなかで唯一の空想上の生き物である龍は、中国では古来より権力・隆盛の象徴として親しまれてきた。そのラッキーアイテムを気楽に求めることができて身に付けられるのは、水晶とタイガズーアイによるブレスレットやブローチなどだ。その2つの宝石の組合せはとても相性が良く、とくに金運が高くなるといわれる。和名を虎目石というタイガーズアイの最大の特徴である名前の由来は、研磨すると光の反射によってきらめく「シャトヤンシー(光線狀)」で、金褐色の細かい縞模様が虎の目の虹彩を思わせることからきている。ところで、この石はシリカ酸塩鉱物である石英(クオーツ)を主成分とする水晶の仲間でもあるのだ。

2024年11月4日月曜日

常陸国が誇るー進化する伝統工芸と匠の技ー展

                                                     常陸国が誇るー進化する伝統工芸と匠の技ー展   by crafteriart gallery 

 古来から日本人は、生活必需品を地域で取れる良質な素材を選んで一つ一つ心を込めて手作りし手入れをしながら長く使う風習がありました。昭和49年、経済産業大臣による「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」が制定されました。1、日常生活に使われる伝統的な原材料・技術・技法による殆どが手作業で製造されたもの。2、一定の地域に生産者が集まっていること。それに準ずるものは茨城県に 結城紬、笠間焼、真壁石燈蘢があります。なお、茨城県では知事による「茨城県郷土工芸品指定要領」(昭和62)があり、内容はほぼ同様で「5年以上県内において製造されいて将来に渡り継続が見込まれるもの」が加わります。


  本展では、日常生活のなかで育まれてきた日本人の知恵と熟練を要する伝統の技を継承しながら、他県ではあまりない独自のスタイルを追求できることにより進化を遂げてきた、常陸国(茨城県)の誇る匠の技をご紹介致します。特に県内の方々に「灯台下暗し」となっていると思われるそれらの素晴らしさを再認識するとともに周知して頂き、茨城県伝統工芸のさらなる発展につながると幸いです。


1、いばらき組子 安達克敏/将伍

昔から障子や欄間などの建具の装飾として用いられてきた組子細工の起源は飛鳥時代といわれ、日本最古のものは法隆寺の金堂にあります。組子は長い年月をかけて磨き抜かれてきた木工技術で、釘を使わずに細く引き割った木に溝・穴・ホゾ加工を施しカンナやノコギリ、ノミで調節しながら1本1本組み付けていく、わずかな寸法の狂いも許さない熟練した職人によって創り出すことができます。安達建具の三代目安達氏は長男とともに建具製作、デサイン組子製作も手がけ日本初となる立体的な組子(行灯)を発表しました。


2、笠間焼 大貫博之

笠間焼は江戸時代中期に始まり、恵まれた環境下で関東最古の窯を守りながら今日まで生活雑器を中心に生産しています。一方で、笠間の地は伝統や格式に縛られない日本でも有数の産地で、全国から陶芸家が移り住み各々の世界観を自由に表現できます。そのなかで、大貫氏はグラフィックデザイナー出身の経験を生かし、身近にある野の草花をモチーフにした線象嵌と色絵の技法を用いた「彩時器」、書道の筆の運びをイメージした「モノトーンの器」、最近では模様をつけた「白彩器」などを制作しております。


3、桂雛 小佐畑孝雄

 「桂雛(かつらびな)」とは、かつては徳川家の城下町として、建築職人や工芸職人などが住み着いた旧桂村(現城里町)より名前が付けられた雛人形のことです。この地は、明治中期頃から埼玉県・静岡県と並び代表的な雛人形の産地でしたが衰退が進むなか「桂雛」は、伝統ある雛人形を復活させると同時に昨今のニーズに応える雛人形作りをしております。通常は分業の雛人形の体部を一貫して手作りで製作するその製造法と技法が高く評価され、平成3年には「茨城県郷土工芸品」に指定されています。


4、大子漆(八溝塗) 辻徹

大子漆は圧倒的に透明度が高く上質で美しい艶が最大の特徴です。輪島塗や春慶塗など高級漆器の仕上げ用に使われたり、国宝建築の修復にも採用されています。辻氏は太子町に残る最高級の漆と漆掻きの文化を絶やすまいと一念発起し自ら樹液の採集を始めて「太子漆 八溝塗」を立ち上げました。現在は工房のスタッフと共に、漆の栽培から木地の製作・漆塗りまでの全工程を手がけています。その透明感や艶、使えば使うほどに味わい深くなる“本物”の良さを実感してもらいたく手頃な価格で普段使いの漆器を提供しています。


5、西ノ内町和紙 菊池大輔

 江戸時代から伝わる西ノ内和紙は、古くから和紙の原料である最高級の那須楮(こうぞ)を使用し、奥久慈の清らかな水で漉き出される国・県の無形文化財です。丈夫で水に強く防虫や除湿の機能性が高いことから四季を通じて最適な環境を保つ庶民生活の日用品として重宝され、徳川光圀が編纂した「大日本史」や商家の帳簿「大福帳」などに用いられます。その伝統を継承する「紙のさと」の四代目、菊池氏は那須楮の栽培から紙漉まで一貫して担う傍ら、強靭な紙の特性を生かした小物、インテリア作品なども手掛けてます。

 

6、本場結城紬 花田啓子/千裕

奈良時代、茨城県と栃木県にまたがる鬼怒川流域にて作られてきた結城紬は、手で紡ぎだした太糸の絹織物として朝廷に上納されます。鎌倉時代、領主であった結城氏の名から結城紬と呼称され全国的な知名度が高まり、のちに染法や、職人の高い技術を要する「経緯絣(たてよこかすり)」の技術が生まれ品質は向上。戦後、細かい糸を用いた絣は精緻化され軽量化が進みます。花田氏は、心地良く経年変化による風合いが魅力な絹織物の最高峰である結城紬を現代風にアレンジし、オリジナル作品を誕生させています。


7、水府(すずも)提灯 鈴木茂兵衛商店/ミック・イタヤ

水府提灯は日本の三大産地の一つです。提灯とは軽くて持ち運びが楽で小さく畳める照明器具のことです。江戸時代、水戸藩で土地の生産性の評価にあたる米の収穫量が大幅に下回り、窮乏化した下級武士らは自らの生活を支えるために提灯作りを始めました。その伝統的な技術を江戸時代から現代に伝える老舗が鈴木茂兵衛商店です。七代目鈴木降太郎氏は、新たな視点から照明器具とし現代の暮らしに対応できる提灯づくりに励み、ミック・イタヤ氏とのコラボにより「すずも提灯」を誕生させました。



 


ー進化する常陸国のお雛様と匠の技ー展


                                                  -進化する常陸国のお雛さまと匠の技- 展

                              

 かつては徳川家の城下町として建築家や職人が住みついた歴史ある茨城県の旧桂村(現城里町)は、雛人形「桂雛(かつらびな)」の産地ですが、近年に入り少子化にともなった衰退化が進んでいます。そこで、「桂雛」の現在三代目となる小佐畑孝雄氏は、先代から続く宮中ゆかりの雛人形を、伝統を守りつつ芸術性を追求しあらゆる人々が一年じゅう部屋に飾って楽しめる日本初となるインテリア・アートの『Hina Doll 』として甦らせました。小佐畑氏は、日本の伝統色・文様と平安時代の貴族の嗜みである十二単に使われた『襲色目(かさねいろめ)』を、Hina Dollの衣裳に取り入れ、壁掛アート作品としても表現しています。江戸幕府の贅沢禁止令により庶民は装いに地味な色を強いられたので人との違いを図り、茶色や鼠色を微妙に染め分けたことから「四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃひゃくねずみ)」という言葉が生まれました。その反動もあり人々は裏地に派手な色合いや絵柄を用いておしゃれを嗜みました。それを表地にした衣裳を纏うひな人形は粋を感じられます。「粋」とは、多彩に着こなす江戸っ子の姿を表現したものです。


 本展では、ユネスコ無形文化遺産に登録されている「結城紬」や京都の「西陣織り」、そしてフランスのアンティークレースなど、国内外の伝統的な衣裳を纏ったHina Dollのセレモニーやイベントに応じた飾り方を、伝統的なひな飾りとともに紹介します。目玉として、上皇后がお召しになった結城紬の着物と同じ反物で仕立てた着物とさらに、その結城紬を身に纏ったHina Dollも展示します。

 また、ひな飾りはさまざまな伝統工芸士の技が集結して舞台を演出するように完成されます。その背景に欠かせない屏風や台、灯りなどの大道具・小道具は、主に地元の職人たちによる「すずも提灯/水府提灯」「西の内和紙」「笠間焼」「大子漆」「かな料紙」「桐細工」「組子」などで作られています。それらを手がけた匠の技のオリジナル作品を展示するコーナーを設けています。


本展を通して、茨城県内で育まれてきた伝統工芸の美を堪能していただければ幸いです。


Evolving Hitachi Province’s Hina dolls and craftsmanship


The former Katsura Village (currently Shirosato Town) in Ibaraki Prefecture, where architects and craftsmen once lived as a castle town of the Tokugawa family, is a production area of hina dolls "Katsurabina", but in recent years, the decline has progressed with the declining birthrate.

 Therefore, Takao Kosahata,  the third-generation successor of "Katsurabina", has revived the hina dolls as the first interior art in Japan that can be enjoyed in rooms year-round, pursuit of artistry with tradition, from related to the Imperial Court. Kosahata incorporates traditional Japanese colors and patterns,  also  the “kasane irome” of  the twelve-layered ceremonial kimono from the the Heian period, into the costumes of Hina Doll, and also expresses them as wall-mounted artworks.

 Due  to the Edo Shogunate's ban on luxury,  common people were forced to wear subdued colors. To distinguish themselves,  they dyed subtle variations of brown and rat colors thus the word "Shijuhacha Hyaku Nezumi" (forty-eight brown, one hundred mouse colors) was born. With that reaction, people enjoyed fashion using flashy colors and patterns on the lining. Hina Dolls wearing such costumes not on the lining but outer surface, feels “Iki”. incidentally “Iki” represents the stylish and sophisticated fashion of the  Edo people.


The exhibition, will introduce Hina Dolls wearing not only traditional domestic such as "Yuki Tsumugi" registered as a UNESCO Intangible Cultural Heritage, and "Nishijin weaving" from Kyoto but also  French antique lace. And  how to decorate Hina Dolls according to ceremonies and events. 

The highlights of the exhibition are a display of kimonos made from the same Yuki Tsumugi fabric worn by the Empress, and Hina dolls dressed in the same Yuki Tsumugi fabric.

 

Furthermore, hina doll displays are completed with the skills of various traditional craftsmen as like produce a stage. Essential background elements such as folding screens, stands, and  lights are mainly made by local craftsmen, including "Suzumo (Suifu)Lantern",  "Nishinouchi Washi",  "Kasama pottery ",  "Daigo Lacquer", "KanaPaper", "Paulownia Woodwork", and "Ibaraki Kumiko. "  A special section will showcase the original works of the craftsmen. 


We hope you appreciate the beauty of the traditional crafts that have been nurtured in Ibaraki Prefecture.

週刊NY生活No.976 9/21/24' 宝石伝説80「日本の神々『宇迦之御魂神』3」53

   山梨と宝石「日本の神々『ウカノミタマノカミ(宇賀之御魂神)』3」53


『記・紀』にて存在が薄いイザナギノミコト(伊弉諾尊)の子、三貴神の1人ツキヨリノミコト(月夜見尊)が『日本書記』の神代紀にはじめて活動を見せる場面は、保食神のウケモチノカミ(伏見稲荷大社祭神の筆頭ウカノミタマノカミと同神)が現われ、その口からはきだしたもので、国・海・山から幾多の食物や蚕が生じ、穀物は田植えして蚕は口にふくんで糸をひきだしたところあたりだ。これは地上生活を送るうえで不可欠な農業と養蚕の起源に値する。ちなみに、繭を口の中にふくみ温めうるおして糸口を取り糸を引きだす原始的な製法は、日本最古の歴史を有する茨城県の結城紬の製法と一致する点が多い。さて、月の運行によって判断する太陰暦に基づく季節や天候による種まきや苗うえなど植物栽培の端緒を開いた「夜の食国(おすくに)を治める」ツキヨリノミコトを祖神として祀るのは、宇佐神宮(4万社ある八幡総本宮)を司る菟狭(うさ)族。古語にある「食国政申大夫」(おすくにまつりごとをもうす君)という名詞は、政務を天皇に申し上げる人のことで大臣をさしていう呼び名だ。皇室が先祖に対して祭祀をおこなう日本最高格の神社は「二所宗廟(にしょそうびょう)」といい、現在は伊勢神宮と岩清水八幡宮だが、奈良・平安時代までは宇佐神宮が伊勢神宮以上に重要視されていた宗廟で、聖武天皇の時代に奈良の大仏鋳造のさいや、皇位継承のときなどは宇佐神宮の託宣でものごとを決めていた。その宇佐神宮下宮にて毎日神饌米を炊き上宮に献げる御炊殿(みかしぎでん)を預っていたのは、伊勢神宮三神主の祖先神のアメノムラクモノの命で祭神はウカノミタマの神だ。

 ところで「崇神紀」によると諸事情によりアマテラスは宮廷の外に遷されたのち、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の二つからなる伊勢神宮に鎮座された。アマテラス大神がトヨウケ大神の神坐の前で調理された神田の御稲を食べる「宵明けの大御饌(おおみけ)」の儀は、伊勢神宮の神嘗祭で最も重要視されている。それを主るトヨウケ大神は伊勢神宮の『延暦儀式帳』に「下宮に鎮座し給うウカノミタマノミコト」と記されている、五穀豊穣から実りある人生を導いてくれる神である。それを表したペンダント富饒(FUJOU)が最後に(株)クロスフォーからでた。


週刊NY生活No.972 8/17/24' 宝石伝説79「日本の神々『宇迦之御魂神』2」52

    
山梨と宝石「日本の神々『ウカノミタマノカミ(宇迦之御魂神)』2」52


 ウカノミタマノカミ(宇迦之御魂神)は稲荷大神のご神名だ。稲荷の神像や絵姿に見られるように、女神が白狐にまたがり稲穂をかついでいたり稲荷の神紋が稲穂を抱き合わせた形になっているのは、稲に宿る神秘的な精霊を表し五穀をはじめ一切の食物を司る神を表徴している。キツネ(狐)は稲荷の本体ではなく眷属や神使いにあたり、宮中に奉仕する八神のうちのミケツカミ(御饌津神)を三狐神の字に当てたことにより古語であるケツネがキツネに転じた音便とのこと。稲荷の幟(のぼり)にハート形の火炎が描かれているのは、心臓が身体における生命の原動器官としてその根元をつかさどるものとみなすところから稲荷のシンボルマークとなっている。

 ところで、ウカノミタマは、スサノオ(須佐之男命)とオオヤマツミ(大山津見神)の娘であるカムオオイチヒメ(神大市比売)との間に授かった兄妹、オオクニヌシ(大国主命)に協力してスクナヒコ(少彦名神)とともに出雲建国・国土経営に大いに貢献したと言われるオオトシカミ(大年神)の妹にあたる。ちなみに要となる神々を次々と世に送りだしたスサノオは、初め誓により宗像三女神を誕生させたのち、最初の妻であるクシナダヒメ(櫛名田比売)との間には子孫で、やがて出雲大社の主神となるオオクニヌシを輩出している。ウカノミタマは、『古事記』では「宇迦之御魂神」、『日本書紀』では「倉稲荷魂命」と表記され、伊勢神宮下宮に鎮座し天照大神の朝夕の大御饌(おおみけ)を仕へ奉るトヨウケヒメノカミ(豊宇気比売神)でもあり、その職名はオオミケツヒメ(大御膳之神)という。五穀などを司るウケモチノカミ(保食神)のオオゲツヒメ(大宜都比売神)と混同されるが全く別の神である。また、そのトヨウケヒメは、イザナギ(伊弉諾尊)、イザナミ(伊奘冉尊)の夫婦時代の最後の子であるワクムスビノカミ(和久産巣日神)の子で天孫降臨の際、天下った神とされている。それはそうとして、『記・紀』は全般的に学者による神の表記の誤読もしかり、登場する神の付け足しや削除、時代錯誤が見受けられるなど当時の権力者による改ざんがあったと思われる。

さて。(株)クロスフォーから稲穂をモチーフにした黄金に輝くリング興隆(KOURYU)がでた。


週刊NY生活No.968 7/20/24' 宝石伝説78「日本の神々『宇迦之御魂神』1」51

   
 山梨と宝石「日本の神々『ウカノミタマノカミ(宇迦之御魂神)』1」51


 九州の大分県にある宇佐八幡宮は、全国の総本宮で八幡を掲げた戦の神様として多くの武士に信仰されてきた。伝承によると代々そこの祭祀を司ってきた宇佐家は、イザナギ(伊弉諾尊)とイザナミ(伊奘冉尊)が禊ぎをして化成した「三貴子」の1人、ツキヨミノミコト(月読命)を祖神として祀ったウサ(菟狭)族で占星術やさまざまな知識をもったシャーマンとして皆を導いてきた族長だった。さかのぼること約九千年前の早期縄文時代、ウサ族は山城国(現在の京都府中南部を占めた旧国名)の稲荷山を拠点として狩猟・漁労・採取の生活を営み、原始菟狭国を作るとともに、食生活守護の神、生命エネルギーの根元、すなわち生きとし生ける総てのものを育成する生命本体の神としてウケモチノカミである伏見稲荷大社五つの祭神の筆頭にかかげるウカノミタマノカミ(宇迦之御魂神)を稲荷山のミムロ(御室)に祀った。その後、約八千年前ごろ、シベリア系種族で原日本人とされる猿田族が勢力を拡大し南下して、ウサ族はその地から追放され稲荷山は原始猿田国となり、ウカノミタマのほかに猿田族の祖神サタヒコノオオカミを祀った。その一方で、追いやられ分散していったウサ族が移住した地域のなかでも阿岐国[安芸国](あきのくに)の多祁理宮(たけりのみや)は生活上立地条件にも恵まれ、約六千年前ごろから古代菟狭国の拠点となっていく。その後、現在の場所に移ったのは約千四百年前といわれ、最初に鎮座したのは宗像神社の三女神(朝鮮半島に由来する航海の神)が最も古く、のちに皇室神である応神、神功皇后を迎えたと考えられている。さらに北九州から宇佐地方にやって来た渡来人は、大陸の先進文化による土木、製鉄、製錬などの技術にたけ、得意の土木技術で平野部を中心に田畑や水路網を開発し、金属を扱う技術で例えば東大寺の大仏を造る際に力を貸して朝廷と結びついていく。

 ところで、ウカノミタマのウカとは食物のことで稲荷(大神)のこと。ミタマのタマ(魂)は生命力そのものを指すことからウカノミタマとは、宇宙生命の本体エネルギーであり米作が伝来したころに生じた称号つまり、いいなり(飯成)がつまった呼び名で、コメは、ムギ・アワ・ヒエ・マメのなかでも1番上等なものであることから五穀の神となったという。

 さて、(株)クロスフォーから稲穂をモチーフにしたペンダント興隆(KOURYU)がでた。