Jewelry sommeliere

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NY州立大学FIT卒業。 米国宝石学会鑑定・鑑別有資格(GIA-GG,AJP)。 CMモデル、イベント通訳コンパニオン、イラストレーターなどを経て、両親の仕事を手伝い十数カ国訪問。現在「美時間」代表。今迄培ってきた運命学、自然医学、アロマテラピー、食文化、宝石学などの知識を生かし、健康で楽しく感動的な人生を描くプランナー、キュレーター、エッセイスト、ジュエリーソムリエール(Jewelry sommeliere)

2012年6月1日金曜日

まな「天から授かりし食べ物」にまなぶ

先日長野県に住む姉から、たらの芽、こごみ、本せりなど春の芽が届いた。包まれていた新聞紙を広げると、初夏の香りが。栽培ものとの違いは一目瞭然だ。形がそろっていて健康優良児のように見えるか。または油絵の具でしっかりと描きましたといった感じを受けるか。届いたものはそのどちらにも当てはまらない。かたちはふぞろいで、色合いは水彩画のようにやさしく奥深い。

わたしたちは昔から旬のものを食べ、知らないうちに体の中のミネラルバランスを保ち、健康なからだを手にしてきた。食欲の秋には、秋刀魚を代表とする青魚や木の実のほか、カルシウムの豊富な栄養成分をたっぷりと。冬になると、その貯蓄してきたものを保ち、またからだを温めるために塩分や根菜類を。そして春になると、からだに溜めこんできた老廃物をだすために、マグネシウムの豊富な春の芽などを摂る。夏に入ると、根菜とは逆の、大地から太陽向かって成長するカリウム成分たっぷりの野菜や果物をとり、からだの中の水分や体温のちょうせつをはかる。
春夏秋冬の、秋(カルシウム)、冬(ナトリウム)、春(マグネシウム)、夏(カリウム)ミネラルサイクルが、わたしたちにとって季節に応じた大切な役割をになってくれているのだ。

とげが痛いたらの芽
ところで食べ方だが、たらの芽は天ぷらにするのが王道。また、韓国風チヂミ(お好み焼き)に使用するネギの代わりに、ざっくりと切っていれると、ほろ苦うまみがチヂミのかわの香ばしさとマッチして美味しい。それにヤンニョムジャン(韓国のたれ)をつけるのだが、さっぱりと食べたいときは、だし醤油に刻んだ青唐辛子と麹を入れて寝かせておいた特製醤油のなかに、少しお酢を入れたものをつけて食べる。すると、「塩味」「酸味」「甘味」「苦み」そして「旨味」が加わり、口の中でヒュージョンが起こる。そこにシャンパンが参加すれば感動はいっきにのぼりつめ、そして食の道へと流れ込む。
あと、あればのはなしだが、大きめに刻んでレモン汁をかけておいたヤーコンと、粉をまぶしてあげ焼きにしたたらの芽を京風だししょうゆであえる。すると、ちょっとした一品料理になる。


清水が流れているところに自生している本せりは姉が採ってきたものではなく、ご近所の方からのおすそ分けとのこと。八百屋さんに並ぶせりとは違い、12〜3センチと小さい。
よく松茸や自然薯など採れるところは誰にも言わないというが、この方も秘密にしているらしい(苦笑)。わたしのお気に入りの食べ方は、やはり韓国風ナムルだ。根っこの部分をのこしてさっとゆでる。そして、すりおろしたニンニク・ごま、白しょうゆで和え、最後に焙煎ごま油を入れてまぜる。(食欲をそそる匂いのする調味料に、まずはしょうゆ、そして、ハーブや香辛料を加えたいろいろなソースなどあるが、殆どは調理による化学反応により、よい匂いがしてくる。
ところが手絞りの本格焙煎ごま油は、ふたを開けたとたん、おなかの中のチャイムが鳴り響くくらい、ふくよかで香ばしい匂いがあふれだす)せりの香りとごま油の匂いは、よくマリアージュするようだ。


本当にこごんだ形の
若葉のこごみ
昨年の今ごろ、母と姉のところに遊びに行った時、こごみを探しに山へ行った。考えることはみな同じで、ほとんどが誰かに採られたあと。「もう帰ろうか」と姉と声が重なったときだ。右前方に若草色にもえるこごみの原生林がでてきた。霧の中、泥に足を取られているのも忘れ、小高い丘を上って行った。すると、成長しきったこごみの葉の間から、先がくるりと丸まったお目当てのこごみがちらりと顔をのぞかせた。気付けば姉は、まるでアフリカの原住民が数キロ先の獲物が見えるごとき、こごみながらつぎつぎと手提げ袋にこごみを放り込んでいる。わたしも夢中になり採ったが、結果は言うまでもなく、雲泥の差さに。
その晩、さっとゆでて、しょうゆとマヨネーズを無造作にかけ、口いっぱいにほおばった。柔らかく、野菜とは違う何とも言えない食感の妖精は、からだのひとつひとつの細胞にとけ込んでいく。そのときよみがえった言葉は「マナ」だ。

ヘブライ語で、天から授かりし食べ物のことを「マナ」という。旧約聖書のなかで、モーゼが民を引き連れ、エジプトからカナン(パレスチナ)に向かっていた道中、食料が尽きて困っていたところ、天から啓示を受けたものを食べて、目的地まで到達したとある。
その食べ物は、カイガラムシの排泄物が乾燥したものとか、りんごのような果物や実であったとか、諸説あるが、わたしは、このときの「マナ」は藍藻類の乾燥させた藻では、と思っている。

この藻の原形は、約30億年前に出現していたといわれている。熱帯地方の湖に自生する濃緑色の単細胞微細藻類で、昔から原住民の貴重な食料源になっているそうだ。分かりやすくいうと、茶会席や精進料理に欠かせない水前寺のりの仲間。生育に欠かせない条件は、人の体温くらいの温度と、降り注ぐような太陽エネルギーだ。一般の微生物が棲めないような、高い塩分濃度やアルカリの性の湖でも自生できるため、雑菌がいない。さらに、栄養面でもすぐれている。必須アミノ酸が豊富なたんぱく質や、抗酸化作用のあるβカロテン・ゼアキサンチンなど多く含まれ、将来の食料源としても注目されているしろもの。因に、これを顕微鏡で見ると、人間の遺伝子のような螺旋状になっている。

お釈迦様が菩提樹の木の下で悟りを開く大きなきっかけとなったのは、あらゆる苦行のなか、最後におこなった断食だといわれている。あと少しで命が尽きるといったやさき、通りすがりのスジャータと名のる村娘が差し出した乳粥でその危機を脱したそうだ。
乾燥により、しなびてこうべが垂れてしまった植木に水をやると、みるみるうちに回復してピンとなる。お釈迦様が乳粥をすすると、もはや細くなっていた食道に一筋のミルクロードができ、からだのすみずみまで浸透していったのでは。そして少しずつ生気がみなぎってくるわれに、食べるということの大切さを再認識「学んだ」したのでは?どんなに過酷な苦行を繰り返しても死んでしまったら、まことの境地を切り開きたい思いは実現しない、と確信したのだ。「乳粥」はお釈迦様にとって、「マナ」だったのではと思う。

食べない飲まないという行為は、一歩まちがえれば死に直結する。哺乳動物ぜんぱんに共通することだが、赤ちゃんは生まれてからすぐ誰から教わったわけでもないのに、お母さんのおっぱいをまさぐりすい始める。そして、生後6ヶ月くらいまでこれだけですくすくと成長するのだから。まさに、「天から授かりし(お乳)食べ物」。これは「マナ」だと思う。
また、お母さんの肌に触れながら、加減をつけてすうことにより、おなかを満たす(わたしのはるか遠い記憶にもある)。このことは、生まれて初めての「学び」ではないかと思う。だから、「学ぶ」の語源をしらべると、「真似ぶ」「まねる」とあるが、そうではなく、わたしの勝手な見解だが、「学ぶ」は「マナ」が語源だと思っている。

それと、「最初に言葉ありき」という格言があるが、一般的に万国共通、赤ちゃんが初めて言葉として発するのは、「マンマ」だと言われている。欧米では母親がじぶんのことを呼んでいると思いその語源になり、日本では、おなかがすいたのでは?との思いから『マンマ』=食事の意味になったと聞いたことがある。

おそらく、モーゼ(旧約聖書の)も天からの啓示を受けて食べ物を手にした時、思わず「マンマ」に近い言葉(お母さん)と叫んで、空を見上げたのでは?それで、「天から授かりし食べ物」のことを、『マナ』(Manna)と言うのではないかと、わたしは思うのである。