Jewelry sommeliere

自分の写真
NY州立大学FIT卒業。 米国宝石学会鑑定・鑑別有資格(GIA-GG,AJP)。 CMモデル、イベント通訳コンパニオン、イラストレーターなどを経て、両親の仕事を手伝い十数カ国訪問。現在「美時間」代表。今迄培ってきた運命学、自然医学、アロマテラピー、食文化、宝石学などの知識を生かし、健康で楽しく感動的な人生を描くプランナー、キュレーター、エッセイスト、ジュエリーソムリエール(Jewelry sommeliere)

2020年2月4日火曜日

週刊NY生活No.756 1/18/20 宝石伝説24カルティエ「トゥティ・フルッティ(すべての果物)2

  カルティエ「トゥティ・フルッティ(すべての果物)」2

 1901年、ピエール・カルティエは、インドよりドレスを3着贈られたアレクサンドラ王妃(英国王エドワード7世の妻)からそれらに合うネックレスの注文を受けた。それ以降、カルティエはインド文化との繋がりを持つ。10年後、ピエールの弟ジャックは、インド皇帝ジョージ5世の戴冠式典に出席するためインド亜大陸へ赴くが、一方で手持ちの宝石をフランス式に仕立てたいと望むマハラジャたちと接触する目的もあった。やがてインドの宝飾品は西洋社会で大評判となり、カルティエの顧客たちは同じような宝飾品を求め店の前に列をなすようになる。
 1936年、カルティエは上流階級に属するデイジー・フェローズ(フランス系アメリカ女性で莫大な財産の相続人)の依頼を受け、彼女がすでに所有していたネックレス1点とブレスレット2点に使われていた785個の宝石を再利用し、さらに238個のダイヤモンドと8個のルビーを加え、インドの宝石文化に影響を受け最も豪華な異国情緒あふれるネックレスを完成させる。翌年このネックレスをつけたデイジーの写真がヴォーグ誌に掲載されたのは、ジャズ・エイジの華やかさと豊かさを象徴する革新的な装いの先駆けだったからだ。

 当時、このネックレスのスタイルは「コリエー・ヒンドゥー(ヒンドゥーのネックレス)」として知られていたが、1970年代カルティエは、カットされたカラフルな宝石がベリー類や葉や花に似ていることを強調するために、その名称を「トゥティ・フルッティ(すべて果物)」と改めた。そのころデイジーはスキャンダラスな恋愛模様と贅沢をきわめたライフスタイルで、ゴシップ紙をにぎわせていた。ニューヨーク・タイムズはこのネックレスについて「いかがわしい記憶とともに輝く宝石」と揶揄した。かたや、純粋にファッションリーダーとして評価されていた彼女は社交界の有名人で、1951年ベネチアで開かれた壮麗な仮装舞踏会に「アフリカの女王」の仮装をほどこし、このネックレスを身に付けて出席した。ところが、「ファッションリーダーだが・・・付けすぎた宝石の重みで小柄な体がたわんでいる」と彼女に対して皮肉たっぷりな記事がデイリーメール紙上に踊った。ちなみにこのネックレスは、1990年ジュネーブでオークションにかけられ、カルティエが265万5172ドルという記録的な価格で落札した。

週刊NY生活No.753 12/14/19 宝石伝説23カルティエ「世界初のプラチナジュエリー」1

   カルティエ「世界初のプラチナ・ジュエリー」1

「Jeweller of kings, king of jewellers 」(王の宝石商、宝石商の王」と、英国王エドワード7世より称えられたカルティエ(Cartier SA)は、フランスを代表する高級宝飾の名門ブランド。1847年、創業者で宝石細工師のルイ=フランソワ・カルティエは師のアドルフ・ピカールからジュエリー工房を受け継いだあと現在のパリ2区内で何度か移転する。最初はパレ・ロワイヤルにほど近いヌーヴ・デ・プティ・シャン通り5番地に個人顧客を対象にジュエリー・ブティックを構える。この場所は社交界が度々行われていた国王の家系にあたるオルレイン公の館からほど近く、カルティエのジュエリーは上流貴族を中心に広まっていく。
 1859年、ナポレオン3世によるパリ大改革が行われ、ベル・エポックの時代に入り街も人々も美しく華やかに生まれ変わる。装飾様式では花や植物などに有機的なモチーフや過剰な曲線の組み合わせを楽しむ「アール・ヌーボー」が全盛を迎えていた。そしてイタリアン大通り9番地に移転したカルティエのブティックはパリのアイコニック的存在となる。顧客のウジェニーフランス皇后がジュエリーのオーダーをしたことをきっかけに、カルティエは王室御用達となり、その名をヨーロッパ全土へ広げていった。
 1872年、カルティエは息子のアルフレッド・カルティエを共同経営者にする。1898年、孫にあたるルイ・カルティエを共同経営者に据え、社名を「アルフレッド・カルティエ&フィス」に変更。そしてヴァンドーム広場北側のラ・ぺ通り13番地に移転。

 1900年、長年の研究により世界で初めてのガーランド・スタイル(ルイ・16世時代の主に建築に用いられていた、葉や透かし細工などに観られる装飾美術)の「プラチナ・ジュエリー」がルイ・カルティエにより制作された。精錬も加工も金よりはるかに高度な熟練を要するプラチナだが、高温の中でも酸化せず常に輝きを保ち、紙のように薄く糸のように細く延ばせる特性は、繊細で軽やかな、宝石だけを連ねたような華麗なジュエリーの製作を可能にした。特にダイヤモンドの輝きを最大限に引き出したことは大きな功績だ。プラチナの加工技術は約30年間カルティエの独断場で、英国王エドワード7世の戴冠式に装身具の下命を賜る栄誉に浴したのだ。この宝石業界におけるエポックメーキングは現在に至るも不朽の輝きを放つ。