カルティエ「トゥティ・フルッティ(すべての果物)」2
1901年、ピエール・カルティエは、インドよりドレスを3着贈られたアレクサンドラ王妃(英国王エドワード7世の妻)からそれらに合うネックレスの注文を受けた。それ以降、カルティエはインド文化との繋がりを持つ。10年後、ピエールの弟ジャックは、インド皇帝ジョージ5世の戴冠式典に出席するためインド亜大陸へ赴くが、一方で手持ちの宝石をフランス式に仕立てたいと望むマハラジャたちと接触する目的もあった。やがてインドの宝飾品は西洋社会で大評判となり、カルティエの顧客たちは同じような宝飾品を求め店の前に列をなすようになる。
1936年、カルティエは上流階級に属するデイジー・フェローズ(フランス系アメリカ女性で莫大な財産の相続人)の依頼を受け、彼女がすでに所有していたネックレス1点とブレスレット2点に使われていた785個の宝石を再利用し、さらに238個のダイヤモンドと8個のルビーを加え、インドの宝石文化に影響を受け最も豪華な異国情緒あふれるネックレスを完成させる。翌年このネックレスをつけたデイジーの写真がヴォーグ誌に掲載されたのは、ジャズ・エイジの華やかさと豊かさを象徴する革新的な装いの先駆けだったからだ。
当時、このネックレスのスタイルは「コリエー・ヒンドゥー(ヒンドゥーのネックレス)」として知られていたが、1970年代カルティエは、カットされたカラフルな宝石がベリー類や葉や花に似ていることを強調するために、その名称を「トゥティ・フルッティ(すべて果物)」と改めた。そのころデイジーはスキャンダラスな恋愛模様と贅沢をきわめたライフスタイルで、ゴシップ紙をにぎわせていた。ニューヨーク・タイムズはこのネックレスについて「いかがわしい記憶とともに輝く宝石」と揶揄した。かたや、純粋にファッションリーダーとして評価されていた彼女は社交界の有名人で、1951年ベネチアで開かれた壮麗な仮装舞踏会に「アフリカの女王」の仮装をほどこし、このネックレスを身に付けて出席した。ところが、「ファッションリーダーだが・・・付けすぎた宝石の重みで小柄な体がたわんでいる」と彼女に対して皮肉たっぷりな記事がデイリーメール紙上に踊った。ちなみにこのネックレスは、1990年ジュネーブでオークションにかけられ、カルティエが265万5172ドルという記録的な価格で落札した。