Jewelry sommeliere

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NY州立大学FIT卒業。 米国宝石学会鑑定・鑑別有資格(GIA-GG,AJP)。 CMモデル、イベント通訳コンパニオン、イラストレーターなどを経て、両親の仕事を手伝い十数カ国訪問。現在「美時間」代表。今迄培ってきた運命学、自然医学、アロマテラピー、食文化、宝石学などの知識を生かし、健康で楽しく感動的な人生を描くプランナー、キュレーター、エッセイスト、ジュエリーソムリエール(Jewelry sommeliere)

2024年2月5日月曜日

週刊NY生活No.941 12/16/23' 宝石伝説71「日本の神々『コノハナサクヤヒメ(木花佐久夜毘売)』1」44

            山梨と宝石「日本の神々『木花之佐久夜毘売』1」44


 サルタヒコ(猨田彦神)の道案内によって無事に高千穂の峯に到達(天孫降臨)したニニギノミコト(瓊瓊杵尊)は笠紗の岬が気に入り、ここを定住の地と定めて堂々たる宮殿を建てた。ある日ミコトが笠紗の浜を散歩していると、非常に美しいひとに出会った。ミコトはその美人に向かって「あなたは誰の娘であるか」とたずねると「私はオオヤマツミノカミ(大山津見神)の娘で、名はカムアタツヒメ(神阿多都比売=鹿児島県西部地方に住んでいた集団の阿多隼人族)、別の名をコノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜毘売)と申します」と答えた。そこでミコトは「あなたには兄弟はあるか」と問うと、「イワナガヒメ(石長比売)と申す姉がおります」と回答。ミコトはすかさず「私はあなたと結婚したいと思う」というと「私はお答えしかねます。父が申し上げるでしょう」というので、ミコトはさっそく結婚を申込みに行くと、父神は大いに喜んでお受けになり、姉のイワナガヒメも添えて嫁がせた。ところが姉は甚だしくみにくい容姿だったので、ミコトはすぐに実家に返してしまい、コノハナサクヤヒメだけを手元に置いて一夜の契りを結んだ。オオヤマツミノカミは、姉の方のイワナガヒメを返されたので、嘆息してミコトに「娘二柱を共に献ったのは、イワナガヒメを娶れば、天孫の命は岩の如く不動となり、コノハナノサクヤヒメを娶れば、木の花の栄える如く栄えるであろうという誓約=(うけい)をしたためであったが、姉を返して妹のみを娶ったことで、天孫の命は木の花のように短くなるであろう」と言われた。これは寿命に関する古代日本人の運命観を伝えたものだ。この姉妹は切り離すことができない表裏一体の関係であることをミコトは見抜けなかった。サクヤヒメが一夜にして子どもを身ごもったそのあまりに早い妊娠にミコトは疑いをもった。「一晩で子をなすことができようか。私の子ではなく、他の神の子だろう?」夫の態度に憤慨したサクヤヒメはすぐに産屋を作り返答する。「お腹の子が天つ神であるあなたの子なら、無事に生まれてこられるでしょう」そう言うと産屋に入り扉を土でふさいで火を放った。

 さて、(株)クロスフォーから桜の語源となった木花佐久夜毘売の花びらが風に舞う美しさをイメージしたデザインのペンダントこぼれ桜(KOBOREZAKURA)がでた。


週刊NY生活No.937 11/18/23' 宝石伝説70「日本の神々『猿田彦神』2」43

          
   
山梨と宝石「日本の神々『猿田彦神』2」43


 サルタヒコノカミはアマテラスの孫・ニニギノミコトが国の統治のために天孫降臨をした際の道案内をした神として登場するだけでなく、伊勢神宮の誕生に関わる重要な役割りをはたしている。『神社名鑑』によると、その由緒沿革は、垂仁天皇の御代皇女ヤマトヒメ(倭姫命)が神宮鎮祭の地を求めて巡歴されたとき、サルタヒコの裔(あとつぎ)、オオタノミコト(大田命)がヤマトヒメを迎え五十鈴川上の霊域を献り伊勢神宮の創建となったのだ。大田命の裔はウジノツチギミ(宇治土公)といい、玉串大内人に任ぜられ累代奉仕し当社を奉祀する。地祭・建築・方除、みちびきの大神として全国に崇敬者があり広く信仰を集めているその祖神がサルタヒコノカミだ。当時その猿田族は、阿佐加の嶺を拠点として一大勢力をともない大和朝廷軍の進路を阻んだ。宇佐家(九州の宇佐神宮)伝承によると、それはサルタヒコという陽性の太陽神と、陰性の太陽神であるアマテラスとの対決であったという。朝廷軍はこれを突破するには武力だけでは困難なことがわかっていたので、武将のオオワカコノミコト(大若子命)を大和に派遣して天皇に状況を上申し、相手に贈賄手段を用いて服従させることを企てた。この計略は成功し、ヤマトヒメノミコトは伊勢国入りすることができたという。いずれにしてもこの阿佐加の猿田族は伊勢国全土で古くから栄えた強力な部族で前期古墳と呼ばれる3世紀末から4世紀に至るころのものが他の地域を断然ぬいて存在していた。

 このような「荒ぶる神」も、アメノウズメノミコトのセクシーな媚態に参ってしまい「まつろえる神」として南方系天孫族のニギハヤギに帰順し大和入り(天孫降臨)の道案内をつとめた。そして天津神ウズメと国津神サルタヒコによる種族を超越した結婚にまで至るのだが、残念ながら長続きすることなくその幕は早く降りる。古事記によると皮肉にもサルタヒコが海で漁をしている際に命を落としたとのこと。現在、そのサルタヒコの総本社とされる伊勢国一宮の椿大神社(全国で2000社を超える)は『延喜式』で小社であることから、阿射加神社が本来の総本社と言える。

さて、(株)クロスフォーから猨田彦神の道開きの神をイメージしたデザインのペンダント(裏面は厄除けの猪の目)になっている導(MICHISHIRUBE)がでた。


週刊NY生活No.933 10/21/23' 宝石伝説69「日本の神々『猿田彦神』1」42

         
 
山梨と宝石「日本の神々『猿田彦神』1」42


 日本の神話においてひときわ謎の多い神がいる。それは天の岩戸隠れや天孫降臨にて活躍する千両役者のようなサルタヒコノカミ(猿田彦神)のことで、それらの史実としての年代は猿田族が稲荷山を占領したよりずっと後世の出来事であって、中期縄文時代の中葉と考えられている。その天孫降臨に際して先導役をつとめたというサルタヒコノカミの説話は日本の神社祭式に大きな影響をおよぼし、各地の神事で天狗鼻の赤い鬼面をかぶった者が神幸(じんこう)の先頭に立っているのもこれに由来するという。さらに天皇がアマテラスオオカミの子孫として、日本の国土と人民を統治する正当性をもつものであることを示す上において、サルタヒコノカミの功績を大きく認めさせることにより、その説話の内容に権威を与えて政治的にもっとも重要な意義をもつようになったといわれる。

 ところで、原日本人の日本列島における集団生活の起源を考古学的に実証するものとして、1975年3月26日付毎日新聞の朝刊に次のような見出しの記事が掲載された。日本最古タテ穴住居 小学生発見の大台野(岩手)遺跡「一万八千年前」と東北大調査団が確認。この遺跡は、それ以前に発見された旧石器時代の住居跡として断定されている鹿児島県の上場遺跡を約三千~五千年も上回るわが国最古の住居跡で、これにより原日本人である猿田族発祥の地はカムチャッカ半島からシベリア方面、さらに奥羽地方から裏日本方面であることが確認されたという。その後、猿田族は南下し、そこに以前から居た宇佐族を追いだして京都の鞍馬山に拠点を移し占拠した。サルタヒコノカミを崇拝し、その性質は獰猛果敢で『延喜式祝詞』には「荒ぶる神」と称せられ、一般には「鬼」といわれたり、「天狗」と呼ばれ、古語に「ししむら(肉叢)を喰らう」とあるように、鳥獣の生肉を食い、人肉まで食ったので、口はいつも血で赤く染まっていたと伝えられている。そのサルタヒコノカミを祀る神社は『延喜式』神名帳によると、伊勢国の名神大社となっている現在の三重県松阪市の西方の丘陵の裾にある一志郡(いちしのごおり)の阿射加神社(あさかのかみしろ)である。そのほか、伊勢市宇治山田町に猿田彦神社がある。

 さて、(株)クロスフォーから猿田彦神の邪視(万災解除)をイメージしたペンダント邪視(JASHI)がでた。