Jewelry sommeliere

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NY州立大学FIT卒業。 米国宝石学会鑑定・鑑別有資格(GIA-GG,AJP)。 CMモデル、イベント通訳コンパニオン、イラストレーターなどを経て、両親の仕事を手伝い十数カ国訪問。現在「美時間」代表。今迄培ってきた運命学、自然医学、アロマテラピー、食文化、宝石学などの知識を生かし、健康で楽しく感動的な人生を描くプランナー、キュレーター、エッセイスト、ジュエリーソムリエール(Jewelry sommeliere)

2019年8月3日土曜日

週刊NY生活No733 7/20 宝石伝説18 ミキモトとアコヤ(養殖真珠)下

                        ミキモトとアコヤ(養殖真珠)

  1920年代、左右対称の機能的な美を追求したアール・デコは、パリ、ニューヨーク、ロンドンなどで同時発生的に流行した。それにマッチする、サイズと色合いが揃うアコヤ(真円養殖真珠)は時代の申し子となる。特にアコヤのロープは、空前絶後の人気を誇り生産も急増した。1929年、米国ウオール・ストリートの株が暴落し、大恐慌が始まるや否なや天然真珠も影響を受けて欧州でも取引ができない最中、天然、養殖、模造に限らず「真珠」はモードと切り離せない関係にあった。シャネルはそれまでの「ドレスにはコルセット」の概念を打ち崩し、体を締め付けない、ストンとした膝丈の黒いドレス『リトル・ブラック・ドレス』に真珠を合わせた。このテーゼに多くの女性が共鳴し、パーティーに欠かせないスタイルとなる。さらに真珠人気に拍車をかけたのがパリモード界だ。戦後、ディオールは優雅で女らしいスタイルのドレス(ウエストをしぼり、スカートを膨らませる)に真珠を合わせた。そして中産階級が台頭する大量消費社会のアメリカに進出して、ハリウッド映画のヒロインらの定番スタイルとなる。G・ケリーはその後モナコ公妃になるが、いつも真珠のネックレスが胸元で優麗な輝きを放っていた。M・モンローは、ハネムーンで来日した際、NY・ヤンキーズのJ・ディマジオから贈られた、ミキモトの真珠ネックレスを付けて人前に現れたことは有名だ。また、映画『ティファニーで朝食を』の冒頭で、早朝ジバンシイの黒いロングドレスを装ったO・ヘップバーンはタクシーから降り、少し千鳥足でNY5番街のティファニーのショー・ウィンドウに向かう。その背中は大きく開き豪華な何連もの真珠が重なり、紙袋からパンを取りだしほおばる彼女の姿は魅力的だ。

  アコヤは、天然真珠の価値を暴落させたことで排斥運動が続いたが、敗戦後状況は一変する。GHQによる日本統治が開始されると、来日する進駐軍将兵たちは愛する人に真珠を贈るため、帝国ホテルのミキモト真珠店に列をなした。また英盧湾にあるミキモト真珠養殖場はメッカとなり、マッカーサー夫人、米軍高官やその家族が真珠王(御木本幸吉)に会いに訪れた。1954年他界する(享年96歳)もミキモト参りは絶えず、世界に冠たる英国女王まで引き寄せるほど『ミキモトのアコヤ真珠』は威光を放ち現在に至っている。

週刊NY生活No.729 6/15 宝石伝説17 ミキモトと(養殖真珠)上

                      ミキモトとアコヤ(養殖真珠)上

  今日市場に出回る天然真珠は過去数百年にほぼ収集されたもので、大半は養殖真珠だ。数種類あるその中で、万国共通のアコヤ「Akoya」と呼ばれる養殖真珠は日本が世界に誇る宝石だが、元来天然ものは日本の固有種ではない。北緯10~30度に分布する東南アジア周辺の海域、アラビア、南インド、南米ベネズエラなどの陸地に入り込んだ湾に生息し、古代文明の各王国を虜にするほど最高な宝石だった。日本には遡ること約1万4000年前、黒潮の流れに乗り九州沿岸と三重の英盧湾など九州以北に到達した。『魏志倭人伝』によると、卑弥呼の後を継いだ壱与が中国に使節を送り献上した白珠500孔は、鹿児島湾に生息するアコヤ真珠といわれる。天然真珠の世界では、丸く美しい真珠が誕生するのは1万個に1、2個とされる(諸説あり)。それらを5百個集めるには相当数が必要で、繰り返し海に潜る漁労活動を営む集団とそれを支配する集中的な権力がその地に存在したのではと新たな邪馬台国論争が浮上する。
  コロンブスのアメリカ新大陸発見も、膨大な富と権力の象徴である真珠を欧州の君主たちにもたらし、やがて真珠貝採取漁業は急速に発展しいく。その一方で、乱獲や長時間の潜水により無数の人々が聴覚や感覚を失い、無尽蔵だと思われていた真珠貝は次第に減少する。すると真珠に対する欲求は高まっていった。

  1893年、御木本幸吉は世界で初めて半円真珠の養殖に成功した。それが元となり1900年代初頭、御木本(ミキモト)、見瀬、西川、上田、藤田らと真円真珠形成法を確立した。商業生産が本格化するとミキモトは英仏など海外に支店を出し、天然真珠がちょうどバブル時代を迎えて価格が高騰するなか価格を下げて販売を始めた。ところが、1921年ロンドンの夕刊紙『スター』が養殖による真珠を「ニセ真珠事件」としてとりあげ大騒動となるが図らずも英仏の真珠シンジゲートは天然と養殖の違いを見分ける術がなく、養殖真珠がいかに素晴らしいかを知らしめる結果となった。その騒動はフランスにも飛び火して、パリの真珠市場は一時閉鎖する。当時、高価な天然真珠のネックレスは支配階級やブルジョワだけが身に付けられる特権で、天然ものに引けを取らない養殖真珠が出回り価格が暴落するのを恐れたのだ。