山梨と宝石「宝石加工地の歴史」4
江戸時代、甲州御岳山一帯から産出された豊富な水晶をもって誕生した山梨のジュエリー産業は、「水晶工芸=水晶研磨」と「貴金属工芸=錺(かざり)職」(江戸時代の後期、錺屋金五郎により京都で創業。鋳造・鍛造・彫金・象嵌・七宝などの金属を細工する職)の2つの流れで発展したが、のちに市場性の高い製品づくりを目指すため1つになる。大正に入ると、水晶の研磨加工は機械化・電化により手磨りから円盤磨きへと変わる。そのころ(地元産の枯渇)ブラジル産水晶の大量輸入により同一規格品の量産も可能になった。やがて、国内の販路拡張、米国への輸出、中国大陸への出張販売などにより基盤が形成され、研磨宝飾品の産地「水晶の山梨」として全国に知らしめた。
昭和に入り戦争がはじまると研磨宝飾業者は、水晶発振子、光学レンズ、絶縁体などの軍需研磨品の生産体制へと組みこまれ「奢侈品など製造販売制限規制」も発令。さらに悪いことに、空襲(甲府市の80%が壊滅的被害)による大きな打撃が重なり、転廃業など余儀なくされた。戦後その復活に寄与したのは皮肉にも進駐軍の兵士たちで、ジュエリーや水晶細工などをみやげ品として大量購入して行った。
戦争の抑圧は反動となり、研磨宝飾品の需要は増大し、国内向けの本格的な生産が再開される。昭和30年代には、真鍮、模造金、銀と、半貴石、合成石、ガラスを合わせた装飾品を中心に、室内装飾品、工業用品などが量産される。やがて高度成長期をむかえ、国民の生活が安定すると、宝飾品などの高級・多様化を求める人々のニーズに合わせて、金やプラチナの台にダイヤモンドや貴石などの色石を嵌める加工をはじめた。また、昭和48年の金地金・金製品の輸入の自由化により、海外の優れた金製品のデザインや加工技術からも大きな影響をうける。
一方で、研磨宝飾産業のさらなる発展と人材育成を目指して、昭和56年「山梨県立宝石美術専門学校」が開校し、産業を支える新しい世代が生まれ多くの卒業生が県内外の宝飾業界で活躍するようになる。昭和61年頃からバブル経済期に入ると、ジュエリーは花形商品となり山梨の宝飾業界も最盛期をむかえるが、バブルが弾けると一転して市場は再び縮小し低迷期に入っていく。