Jewelry sommeliere

自分の写真
NY州立大学FIT卒業。 米国宝石学会鑑定・鑑別有資格(GIA-GG,AJP)。 CMモデル、イベント通訳コンパニオン、イラストレーターなどを経て、両親の仕事を手伝い十数カ国訪問。現在「美時間」代表。今迄培ってきた運命学、自然医学、アロマテラピー、食文化、宝石学などの知識を生かし、健康で楽しく感動的な人生を描くプランナー、キュレーター、エッセイスト、ジュエリーソムリエール(Jewelry sommeliere)

2023年5月10日水曜日

週刊NY生活No.909 4/15/23`宝石伝説63山梨と宝石「日本の神々『大国主命とスクナヒコノミコト』3」36

  山梨と宝石「日本の神々『大国主命とスクナヒコノミコト』3」36

 

 『記紀』によると、大国主命が出雲国のイナサの浜辺で食事をしているとき海の向こうから神がやってきて「スクナヒコノミコト」というが誰のことだがわからないので、神産巣日神(日本神話の根源神のひとり)に尋ねたところ、「私の生んだ多くの子供のうち、教えに従わないでどこかへ行ってしまったのが帰ってきたにちがわない。仲良くしてください」と答えた。この神は大国主神とともに国造りをおこなった「少彦名神」のことで、漢字は当て字だ。ある説によると、邪馬台国(やまとこく)の王位に上伽耶の女王卑弥呼が就き、そして出雲出身のやはり太陽信仰王族である昔(せき)氏(出雲の関家)=(スクナヒコ)がほぼ190年間、新羅(伽耶)国の王座に君臨していたが王座を追われ、西暦356年、熊信仰王族「金氏」にとって代わられたあと、根(母)の国である出雲に帰国したというのが真相のようだ。それと重なる伝説が高麗王朝の正史『三国史記』にて「新羅の『昔脱解王』は海を渡ってきた」とある。「スクナヒコ」とは「良い国の貴い人」の意味らしく、「スク」が変化して「ソガ」となり、蘇我氏は昔氏の後裔になるとのこと。さらに日本史上、もっとも謎につつまれた人物とされる武内宿祢「タケウチスクネ」(著名な豪族の始祖で、皇極天皇の時まで歴代の大臣として皇室をしのぐ勢力をもった蘇我氏の始祖)が登場する。300歳以上生きてたことになるふしと、風土記のなかにこの名前がないことから個人名ではなく、「スクナヒコ」と同じ意味に使われた名前とすると辻褄があうという。スクネは神功皇后を操ってまで熊襲金氏から新羅の王座を奪還すべきその手を片時もゆるめなかった一方で、列島では熊信仰族による第二期大和王朝が始まった。その後、蘇我の本家は645年のクーデターによって滅びるもその分家の勢力は強く残存し、663年の「白村江の戦い」に倭国は引き込まれていく。まもなく列島の「倭」は存在しなくなり、670年「日本」の国号が初めて使われたと『唐書』などに記されている。最後に、大国主命が祀られた『出雲大社』の参拝方法は、『ニ礼四拍手一礼』と一般的な『二礼二拍手一礼』と異なる。また、旧暦の10月を『神無月』というが、全国にいる八百万の神が集まる出雲では『神在月』と呼ぶこの伝承は、オオクニヌシが偉大な存在であったことを物語る。

さて、その大国主神にちなんだリング、慈愛(JIAI)が株式会社クロスフォーからでた。

 


週刊NY生活No.905 3/18/23` 宝石伝説62山梨と宝石「日本の神々『出雲国の主人公 大国主命』2」35

   山梨と宝石「日本の神々『出雲国の主人公 大国主命』2」35


 弥生時代、渡来してきた太陽崇拝する民族のウガヤ(上伽耶)、アラカヤ(下伽耶)が
「記・紀」に「大和根の国」と記される出雲国を開拓し、アラカヤは出雲に残りウガヤは東に進んで現在の斑鳩(イカルガ)と呼ばれる地域を中心に勢力を拡大していった説があるが、それは地域名などの呼び方から裏付けられるという。例)「出雲神社」はアダカヤ神社と訓し、「斑鳩」はウガヤカ(=処)が動いて(イゴク)→イカルガに転じたもの。さらに、ウガヤ=ヤマト(太陽の土地を意味する)=ヤマハト=斑鳩とのこと。さてその一方で、「熊信仰」(日照りがつづく干害から、雨を降らす「黒い雲」を祈願するようになった人々のこと)するクマソ(熊襲)と呼ばれた渡来人が九州にやってきて自分たちの故郷とし定着するもやがて東征を始めた。そのことに危機感を感じた太陽信仰する景行天皇は、息子である小碓命(オウスノミコト)=(ヤマトタケル)に彼らの本拠地である九州征伐に乗りだす命を下した。そして見目うるわしい美少年だったオウスは女装し、クマソの頭目の川上梟帥(かわかみたける)を油断させて討った。目頭は、「わが国では、私より強いものはおりません。これからはヤマトタケル(日本武尊)と名乗って下さい」といって息絶えたことは今でも語り草になっている。

 やがて、西暦360年代になると太陽信仰族の最後の王といわれる仲哀天皇(ヤマトタケルの子)の死をもって、ヤマトの国は熊信仰族による第二期大和王朝が成立し、仁徳天皇以下、河内王朝を経て現在まで続いているという。そのことは、出雲国の主人公であったオオクニヌシ(大国主命)=「意宇国之主(オウクニノヌシ)」の「意宇郡(おうぐん)=出雲国最大の郡」に祭られるべきであった出雲大社が、意宇国(出雲)の端に創建され、『熊の権現』を祭る出雲国一の宮・熊野大社が出雲国最大の意宇郡(おうぐん)松江市郊外の山間、意宇川沿いに建立された由縁であると思える。さらに、出雲大社の祭祀を代々担う出雲国造家が、元は本拠地であったこの辺りに熊野大神を奉斎したのは古代出雲において最も重要な神社だった可能性が高いという。

 さて、神話のなかでも因幡の白兎を救った心優しい大国主命の良縁をモチーフにしたペンダント慈愛(JIAI)が株式会社クロスフォーからお目見えした。


週刊NY生活No.901 2/28/23` 宝石伝説61山梨と宝石『出雲国の主人公 大国主命』1」34

   山梨と宝石「日本の神々『出雲国の主人公 大国主命』1」34 


 「記・紀」の神代条に五穀や蚕の発祥が豊葦原の中津国=出雲国とかかれているこ
とは、古代出雲王国はあまねく大陸文化の上陸地であり大和国にさきだつ先進国であったことを示している。その所在地は今の出雲市ではなく、島根県を代表する郷土民謡の「安来節(やすぎぶし)」が誕生した安来の周辺だったという。島根県埋蔵文化センターの資料によると、2003年の時点で弥生時代中期~古墳時代後期にかけての10,048ヶ所の遺跡が発見されている。それらの古墳の経時的な推移をみると安来→松江→出雲の変遷が確認されており、さらに四隅がヒトデのようにとびだした出雲神族とくゆうの大型墳丘墓の四隅突出型墳丘墓(しすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)が見つかっており、山陰地方東部から北陸地方南部にかけて首長のあいだに強い結びつきなど政治的勢力の同盟関係があったのではと推測されている。副葬品には銅鏡・ガラス製品・鉄剣・馬具・大量の銅剣などが見つかっている。それらのことからも最初に出雲ありきではなかったようだ。安来市だけでなく出雲市にも大型の古墳があり、弥生時代後期には出雲地方の東西に2大勢力があったと考えられ、それらは太陽を崇拝する渡来人だったといわれる。山陰地方に渡来した天津神、出雲族といわれるイザナミノミコトが鎮座する日本最古の大社造の国宝『神魂(かもす)神社』も松江市にある。

 ところで、出雲国の主人公であったオオクニヌシ(大国主命)は「意宇国之主=オウクニノヌシ」である以上「意宇郡(おうぐん)=出雲国最大の郡」に祭られるべきであるのに、出雲大社は意宇国(出雲)の端に建てざるおえなかった。その背景には一般的に知られている「国譲り」が行われたとされている。実際には「記・紀」にこの文言はどこにも記述はないとのことだが神話によると、アマテラス(天照大神)は、豊葦原の中津国を孫のニニギノミコト(瓊瓊杵命)に統治させようと考え、アマノトリフネ(天鳥船)を従えたイザナギノミコトの子であるタケミカヅチ(建御雷神)に、国譲りをオオクニヌシノミコトと談判させて成功したとされる。

 さて、大国主命がスサノウノ命から出された難題で拾ってきた鳴鏑の矢をモチーフにデザインしたペンダント、鳴鏑(NARIKABURA)が株式会社クロスフォーからお目見えした。


週刊NY生活No.897 1/21/23` 宝石伝説60山梨と宝石「日本の神々『スサノウノミコトと草薙剣』」33

  山梨と宝石「日本の神々『スサノウノミコトと草薙剣(くさなぎのつるぎ)』33


 スサノウは、『記・紀』ではアマテラス・ツクヨミとともにイザナギ・イザナミの
子の「三貴神」の一人として位置付けられているが、その姿は一様ではなく多くの顔をもつ。京都の八阪神社では「牛頭天王」(新羅から渡来したヒポコと同一されているツヌガアラヒトのこと)、カマドの神である「荒神様」「山の神」「田の神」「道祖神」など。また、「氷川神社」「八雲神社」「熊野神社」などの祭神として祀られている。妻は何人もいて、ヤマタノオロチ退治のときに救った1、クシナダヒメ(櫛名田比売命)で子どもは宗像三女神、2、カムオオイチヒメ(神大市比売)との子は、ウカノミタマノカミ(宇迦之御魂神)、3、サシクニワカヒメ(刺国若比売命)との子に出雲大社の主祭神の大国主命など。

 当時、古代出雲王国はあらゆる大陸文化の上陸地であり大和国にさきだつ先進国であったことは、『記・紀』の神代条に五穀や蚕の発祥が豊葦原の中津国=出雲国であると書かれていることが証明している。『播磨国風土記』にも仁徳天皇が隠岐、出雲、伯耄、因幡、但馬の五国から国造りを召したところ、彼らが召使いを水夫に仕立てて回航してきたのは不届であると口実をつけて、播磨にとどまらせ田作りをさせた。因幡をイナバというのも、この地が「稲場」であることを示しており、天皇家の先祖の祭りごとに使う米をおさめる土地であった。

 さて、高天原で暴れたスサノウは追放され、イソタケル(五十猛)の神々をひきつれてまず「新羅」にくだりそれからこの「出雲」にやってきた。ある説によると「ヤマタノオロチ」とは、「ヤマタ=アマタ=大勢」オロは「高麗」の音韻の変化したもの、チは人とのことで、オロチ=オロの地からやってきた人という意味に使われた呼称で、製鉄の技術など中国の進んだ文化を引っさげて渡来してきた高句麗族の暴虐からスサノウが伽耶族の人々を救い出した物語のようだ。さらに物語は、スサノウの剣が伽耶の銅剣のためオロチの鉄剣に触れて刃が欠けたことから、鉄は権力の象徴となりオロチから手に入れた「くさなぎ(草薙)の剣」は、権力の伝達を意味する皇位継承の儀式につかう3種の神器の1つとなる大きな意味合いをもつ背景にもなっている。

それをモチーフにした厄除けにもなるペンダント草那藝之大刀(KUSANAGINOTACHI)が、株式会社クロスフォーからお目見えした。


週刊NY生活No.894 12/17/22` 宝石伝説59山梨と宝石「日本の神々『スサノウノミコトとヤマタノオロチ』32

 山梨と宝石「日本の神々『スサノウノミコトとヤマタノオロチ』とジュエリー32


 天孫降臨(てんそんこうりん)とは、ニニギノミコト(邇邇藝命)が祖母であるアマテラスオオミカミ(天照大神)の命を受けて高天原から日向国(宮崎県)の高千穂に天下ったことをいう。アメ(天)とは現実に生活している自国から遠く離れた異国をあらわす呼び名で、そのことから『天つ神』は縄文時代や弥生時代に日本の国土以外から新しい文化をたずさえて渡来した祖先といわれる。一方で、それ以前の石器時代、葦原中津(日本の大地のこと)で生まれた、タカミムスビノカミ(高御産巣日神)など北方系天孫種族といわれる日本の国土に住みついていた『国つ神』が存在した。天つ神は、稲作や機織りをもたらした韓国の南部に位置する伽耶(新羅)や、百済、そして製鉄技術をもつ北部の高句麗から渡来してきたという説がある。母権社会文化に由来する太陽神のオオヒルメ(大日孁)「最も古い日本特有の称号の一つ」とは、神霊交感をおこないそれを伝達する女性シャマン(巫女)のアマテラスを指すが、伽耶族といわれる物部氏が信仰する天磐船(あまのいわふね)に乗って舞い降りてきた天つ神(正式名は、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊で天火明命(アメノホヒカリ)の別名をもつニニギノミコトの兄『ニギハヤギ』であると推測する方がいるといったミステリアスな存在である。『日本書紀』の第10代崇神天皇の6年の条によると、宮中に「アマテラスオオミカミ(伽耶族)」と「ヤマトノオオクニタマノカミ倭大国魂(高句麗族)」の二神を一緒に祀っていたが、「国内に疾病がはやり、背くものがあって政治をすることが難しい」と恐れをなして、アマテラスを伊勢に鎮座させたのだ。すなわち、縄文晩期から弥生時代の末期までの日本列島内では、稲作文化をもたらしたとされる伽耶族(のちに製鉄の知識まで身につけ始めたその勢力はしだいに大きくなっていく)と、鉄文化を伝えた中国に隣接する高句麗族の間で抗争が絶えまなく続いていたという。その代表的なことがらが、スサノウ(素戔嗚命)によるかの有名な、農民を苦しめていた「ヤマタノオロチ」の退治だ。

さて、株式会社クロスフォーから、スサノウノミコトのヤマタノオロチ退治の神話をモチーフにデザインしたペンダント征討(SEITO)がでた。

週刊NY生活No.890 11/19/22` 宝石伝説58山梨と宝石「日本の神々『天照大神と八咫の鏡4』」31

     山梨と宝石「日本の神々『天照大神と八咫鏡(やたのかがみ)4』」31


 皇室継承のレガリアとされる「三種の神器」に、八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾
玉(やさかにのまがたま)、草薙の剱(くさなぎのつるぎ)がある。『記・紀』の伝承によると、現在でも伊勢神宮に祀られている御神体である八咫鏡は、アマテラスを天の岩戸隠れからだすために八百万の神が天安河辺(あまのやすのかわら)に集まって協議し、タカミムスビノカミ(日本神話根元神)の子オモイカネノカミ(思兼神)の発案によって、八尺瓊勾玉とともに飾り立てられた。その後、アマテラスは孫のニニギノミコトに八咫鏡を与え「この鏡を見ること、われを見るごとく斎きまつれ」と命じたとされる。一方で、熊襲の反乱鎮圧のとき築紫に出陣した神功皇后と仲哀天皇を出迎えた豪族の熊鰐(くまわに)や五十迹手(いとで)らは船に立てた木の枝にこの三種の宝を掲げて献上し誠意を表したことが記されている。

 中国で物象をうつす器物として「鏡」という文字が用いられたのは、紀元前3世紀ごろの周時代の末期といわれる。今まで発掘されたほとんどが円い鏡で、背面の外側の周囲に幾何学的文様をほどこし内側に龍虎や鳥獣を浮き彫りにして鋳られ青銅面は磨かれていた。日本(北九州)に最初に伝わった鏡は前漢時代の直径15センチぐらいの大きさだが、『魏志倭人伝』によると邪馬台国の女王卑弥呼は魏王から「汝の好物」として銅鏡百枚を賜与されたと記されていて、弥生遺跡や古墳の出土品から数多く見つかっている殆どは凸面鏡になっており単なる姿見ではない。この鏡を太陽に向けて立てるとどちらの方向からもギラギラと輝いて見えることから、鏡は権力者の所在を誇示するためのものと考えられていた。また、『古事記』の応神天皇の段には、新羅王の子、天の日矛(ヒボコ)が新羅から持ってきた宝の中に「澳津(おきつ)鏡」と「辺津(へつ)鏡」のセットがあるこれらは、「陸上鏡」と「海上鏡」であり、勾玉・剱とともに太陽の運行などを利用した方位決定のための測量機器として用いられていたと仮説をたてて実証されている多くの古代史研究家がいる。そして、太陽の異名「日輪」にたとえられる神、すなわち天照大神と結びついていく。

 株式会社クロスフォーの天地開闢シリーズのペンダント八咫鏡(YATANOKAGAMI)は、太陽の光に煌めく、まさにアマテラスオオミカミの御神体のよう

週刊NY生活No.886 10/15/22` 宝石伝説57山梨と宝石「日本の神々『天照大神3と市杵島比売命』とジュエリー

  山梨と宝石「日本の神々『天照大神3と市杵島比売命』とジュエリー30


伊勢神宮とは、天皇家の始祖とされる天照大神(アマテラスオオミカミ)を祀る皇大神
宮(内宮・伊勢市宇治)と、その御饌(みけつ)神-食べ物の世話をする神を祀るとされる豊受大神宮(外宮・伊勢市山田)の二つを総称したものだ。その天照大神という神名は、わりと新しい時代に成立したもので『日本書紀』によると、石器時代から日本にあった称号ではなく当時はオオヒルメムチ(大日霎貴)と呼ばれ、高天原で田を作ったり、神衣を織ったりして、祭祀を司り日に仕える巫女すなわちシャーマンだった。民俗学的見地からは、アマテラスオオミカミを皇祖神とする天孫種族は縄文時代晩期までに、稲作と機織りの技術をたずさえて九州地方に渡来した種族といわれる。そのころ、初代天皇の崇神天皇(神武天皇、応神天皇とも同一人物との説あり)は、宮廷内にアマテラスとヤマトオクニタマ(倭大国魂)の二社を同床させることは「神の勢いを畏れて共に住みたまふ安からず」といって、皇女をつけたアマテラスを宮廷の外に遷し次の崇仁天皇により伊勢に鎮座させた。そのときアマテラス大神がトヨウケ(豊受)大神を伊勢に呼んだという伝承があり、伊勢に祀られるようになったその起源は、九州の宇佐神宮の御炊殿で祀られていたウカノミタマ(宇迦之御魂)でトヨウケ大神のことだといわれる。また、ニ所宗廟だった宇佐神宮の中央(上座)に祀られている比売大神はアマテラスとスサノウの誓約(うけひ)によって生まれた三女神で(宇佐家の伝承によるとアメノミクダリノカミのこと)称号はイチキシマヒメノミコト(市杵島比売命)。この三位一体の神はそれよりきわめて古くから祀られており、その出生の次第から順序ならびにその居所までいずれも定めにくい奇異な神といわれるが、古代うさ(菟狭)国の拠点があった安芸国にイチキシマヒメノミコトとして総本社(現在は厳島神社)に祀られている。アマテラスから「天孫を助け奉りて祭られよ」と詔勅が下され宗像三女神としても配置された。一方で、初代、宇佐明神(応神天皇)別名「誉田真若」に降嫁したことから比売大神がなぜ上座に居られるのかがこれで理解できる。

さて、株式会社クロスフォーより胸元から御光がさすような天地開闢シリーズ、タイニーピン『光』(HIKARI)がでた。

週刊NY生活No.882 9/17/22` 宝石伝説56山梨と宝石「日本の神々『天照大神2』とジュエリー29

                  山梨と宝石「日本の神々『天照大神2』とジュエリー29


 皇室が祖先に対して祭祀をおこなう日本最高格の神社は「二所宗廟(にしょそうびょ

う)」という(現在は伊勢神宮と岩清水八幡宮)が、奈良・平安時代、宇佐神宮は伊勢神宮以上に重要視されていた宗廟といわれ、聖武天皇の時代に奈良の大仏鋳造のさいや、皇位継承のときなどは宇佐神宮の託宣でものごとを決めていた。その宇佐神宮の神殿の配列は、正面から向かって左より八幡神の応神天皇(神功皇后が「三韓」にでむいて九州に戻ってから産んだ皇子)を祀る一の御殿。中央(上座)は比売神(ひめかみ)の宗像三女神を祀る二の御殿。右は神功皇后=オキナガ・タラシヒメ(『日本書紀』垂仁記によると、帰化した新羅国王の子ヒボコの六代目の孫の子ども)を祀る三の御殿となっている。ヒボコは金属精錬技術集団を率いて渡来してきたとされ、銅や鉄を精錬する技術は農具や武器を製造できる力であり、政治的・経済的にそれらを持たない人々を支配下におく能力を意味したとされる。日本で神社が造られて祭祀が行われるようになると、神の命令を聞いたり祈りを捧げるためのなかつぎ役シャーマン(巫女)が必要になるが、『日本書紀』の記述によると、九州で熊襲(九州南部に居住した部族)がヤマト王権に背きその征伐のときに神功皇后が神がかりの状態になって託宣を下したとある。そのようなことから神功皇后が卑弥呼で、九州宇佐を出発地として発足した邪馬台国が東征して大和政権になったという説がある。さらにそれを裏付けるひとつに、卑弥呼の宗女であった壱与(いよ)が日本最古の輸出品とされる5千個の真珠を中国に献上したことが『魏志倭人伝』に記されている。当時、日本のアコヤガイの生息地は暖かい南九州のような海の底に限られ、さらに天然のアコヤ真珠は1万個からひとつかふたつしか採れず、素潜りのできる海人が大勢必要でなおかつそれらを統括できる巨大な権力が九州に存在していたとわかる。 

 さらに多くの研究者によると、『倭人伝』の記述にある卑弥呼と『記紀』に記されている天照大神に多くの類似点がみうけられ時代がピタリと重なることから、卑弥呼=天照大神の説が浮かび上がっている。

 さて、株式会社クロスフォーから、天照大神のご神体ともいわれる三種の神器の一つ「八咫鏡」をモチーフにした太陽の光に煌めくようなデザインのリングがでた。


週刊NY生活No.878 8/20/22` 宝石伝説55 山梨と宝石「日本の神々『天照大神1』と宝石28



                       山梨と宝石「日本の神々『天照大神1』と宝石」28


 八幡宮の総本社である大分県宇佐神宮のシャーマニズムの伝承によると、現世日本民族において少なくとも八種類以上の種族の混血分化は、日本列島の地理的・地質的、気候や環境の条件により進化・発展・繁栄し、125種のヒトの「種」が生成されたという。諸説あるが、襲名により何代も続いた初めての人格神イザナギ・イザナミの夫婦二神の交合によるもので、神話では八百万の神の誕生につながる。そして国土を開発しそれらを統治管理するため最後に生まれたのが、アマテラスオオミカミ(天照大神)・ツキヨミノミコト(月読尊)・スサノオノミコト(素戔嗚尊)の三貴子だ。そのなかの天照大神は皇室の先祖といわれ、『記・紀』によると最初に神と崇めたのは天武天皇。それは「天皇を神とし、伊勢の皇大神宮は祖廊で同時に宇宙の中心である」とするもの。中国の陰陽五行説の万物の生ずる宇宙の根元は「太極」で、それを神格化して「太一」と呼び大空に不動のまま輝く北極星を「太一」になぞらえ軸とした。この北極星の周囲を巡る北斗七星は、天帝である「太一」の乗り物で、これを御して宇宙に乗り出し四方上下を治めると考えた。北極星は「北辰」ともよばれ古くから君主にたとえられるが『春秋合誠図』という書物に「天皇大帝は北辰の星」と記されている。大和王朝の大王自ら「天皇」を意識して名乗るようになったのは、聖徳太子が隋に遣った「国書」の中に「東天皇敬白西皇帝」とあるのが最初で、天武天皇以降のことになる。天武天皇は壬申の乱の際に天照大神を遥拝して「勝利を得たのは伊勢神宮のご加護があったから」と考えて特別視し、天皇即位後から伊勢神宮を天皇家専用の神宮とした。天照大神は「太一」であることに基づき、五十鈴川のほとりに皇大神宮をおいて内宮とした。さらに「天」を象徴する方位の「乾・西北」渡会の地に下宮として豊受大神を勧請した。神嘗祭(旧9月15日~17日)は、天照大神が豊受大神の神座の前で調理された神田の御稲を食べる宵明けの大御饌(おおみけ」の儀が営まれる最も重要視された祭りになる。ちなみに史実によるとなぜか、持統天皇(天武天皇の皇后)の伊勢巡行以後、明治に至るまで天皇の参拝もなく勅使しか派遣されなかったという。

 さて、株式会社クロスフォーから天地開闢シリーズ、天照大神の後光をイメージし、身に付ける人の願いが叶うようなペンダント『光』(HIKARI)がでた。


週刊NY生活No.874 7/16/22' 宝石伝説54山梨と宝石「日本の神々『禊祓い(みそぎばらい)』とジュエリー」27

 山梨と宝石「日本の神々『禊祓い(みそぎはらい)』とジュエリー27

「ひとり子のために最愛の妻を失った」と、イザナギは火の神を生んで亡くなったイザナミを嘆き涙にむせぶうちに、香具山(奈良県桜井市)にいる泣女がやってきて一緒に泣き悲しんだ。この風習は今でも中国や韓国に残っており葬式には泣女を雇う。そして妻に会いたい気持ちが募り、イザナギは黄泉国に出かけて行った。現代でも青森県下北半島にある恐山のイタコ、沖縄のノロなど「口寄せ」らにより死者との交感をするが、とうじは日常茶飯事であったという。「愛する吾が妻よ。吾とお前による国造りはまだ終わっていないからもう一度帰ってこないか」それに対し「帰りたいから黄泉国の神に許しを得るまで、わたしを見ないで待って下さい」と言われたのに、イザナギは待てずに頭髪の櫛の一本に火をともし妻を見た。するとイザナミの身体はウジが湧きドロドロで、いかずち(雷)が発生していた。イザナギはびっくりして恐れおののき逃げだすと「わたしに恥をおかかせになった」といって邪神を遣わしあとを追わせた。物を投げながら逃げてもどこまでもしつこく追いかけてきたのが、そこに生えていた桃の実を投げたところみな逃げ帰った。その状況証拠といわれる1つの桃の種が1984年、奈良県広陵町の牧野(ぼくや)古墳石室から見つかる。中国でも『春秋左氏伝』の昭公四年の条に「桃は邪気を除くもの」と書かれている。そして自ら追ってきた妻にイザナギは絶縁をいい渡した。イザナミは「それならば、人びとを1日に千人くびり殺す」と放つと「わたしは1日に千五百人の産屋をたてる」と返した。この戦いは現人神であるイザナギが勝利する。『記・紀』の伝承によると、イザナギの「禊祓い」により、左眼を洗うと天照大神が、右眼からは月読命、鼻から素戔嗚尊の三貴子が、そして身に付けていた物からは十二柱の神が誕生したとされる。ところが最初に夫婦二神の和合によってすでに出生していることから諸説あるが、何代ものイザナギ(原日本人の高祖、北方系天孫族)とイザナミ(朝鮮半島から山陰地方に移動した出雲族)が同じ称号を襲名しながら多くの混血分化が生成されたのではとされる。

さて、株式会社クロスフォーから、万物の誕生とその煌めきをイメージしたペンダント『栄耀(EIY0)』がでたが、イザナギの男系祖先は、イザナミにより大いに繁栄してきたのだ。