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津延美衣(つのべみえ)NY州立大学FIT卒業。米国宝石学会鑑定有資格者(GIA-GG,AJP) 運命学・自然医学・アート・アロマテラピー・食文化などの知識を元に感動的な人生を描くプランナー・エッセイスト・キュレーター兼ジュエリーソムリエール(Jewelry sommeliere) 美時間代表。

2026年6月8日月曜日

週刊NY生活No.1035 12/13/25 宝石伝説95縁起物と宝石「琵琶湖の竹生島神社の妙音弁財天と淡水真珠」15

     縁起物と宝石「琵琶湖の竹生島神社の妙音弁財天と淡水真珠」15



平安時代末期『平家物語』に登場する平経正が戦勝祈願でこの島を訪れ琵琶を奏じたところ、弁財天が感応して白龍が現れたという伝説があるが、琵琶湖という呼称は14世紀の初頭、比叡山延暦寺の学僧光宗(1274~1347)が記した文献『渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしゅう』に「琵琶の形に似たり」と表記されたことにはじまる。そこに浮かぶ竹生島の名について諸説あるが、孝霊天皇の御代(紀元前290年~215年)、『近江国風土記』逸文に登場する霜速彦命の姪である浅井姫命は、天から降りて琵琶湖の北方に島を作りそこにいろいろな植物の種を播いたところ、1番初めに竹篠が生えたので竹生島と名付けられたとある。そして産土神として祀られたが、湖水を支配する水の神ともいわれたことから後に弁財天と習合する。平安時代に入ると神仏習合が進み、御祭神に市杵島比売命(琵琶をもつ弁財天)、宇賀福神(白巳)、浅井姫命(産土神)と龍神の四柱の神様をお祀りする竹生島神社(都久夫須麻神社)は宝厳寺を神社の神宮寺として管掌されてきたが、明治の神仏分離令によりそれらは岐れ、宝巌寺の弁財天堂を神社の本殿としたことから竹生島の神は弁財天とされた。

ところで、弁財天と縁が深い宝石の一つに真珠があげられるが、琵琶湖の天然淡水真珠はとても希少なもので滅多にお目にかかれない。そして日本最大の湖とされる琵琶湖では約90年前からこの湖特有のイケチョウガイを母貝とする淡水真珠の養殖が行われてきたが1980年以降、水質悪化などの影響で生産量が激変するも、その美しい光沢と一つ一つ違う色や形の個性が見直され、復興が進められているがこれらも現時点では希少な存在となっている。海で育つアコヤ真珠や南洋真珠には中心に核があり(養殖の場合は人工的に埋め込む)それを痛みに感じる貝は、それを覆うようにだす分泌物が真珠層となり美しく丸っこい真珠が誕生する。しかし核の大きさに対してその層は薄いため、傷・衝撃・汗などに弱く経年変化も伴う。一方、アジア地域の綺麗な水質の川や湖で、約3~7年という非常に長い年月をかけて育つ繊細な宝石の一種の淡水真珠には核がほとんど無いため歪な形が多いが、全てが真珠層で形成されているため、核をもつ真珠の弱点は殆どなく非常に扱いやすく日常使いに適する。


週刊NY生活No.1031 11/15/25 宝石伝説94縁起物と宝石「琵琶湖の竹生島八臂弁財天(宝厳寺)」14

       縁起物と宝石「琵琶湖の竹生島八臂弁財天(宝厳寺)」14


 滋賀県の琵琶湖北部の島、竹生島明神と弁才天が宝厳寺と都久夫須麻神社に分かれて祀られるようになったのは明
治時代初期の神仏分離令以降のこと。それまで竹生島では平安時代から近世まで神仏習合の信仰が行われていた。それを物語るように、寺の本堂である観音堂は直接2本の渡り廊下で都久夫須麻神社の本殿と結ばれ、両者がもともと不可分の関係であることを示している。奈良時代、神亀元年(724年)宝厳寺は開山した僧の行基により国家安泰、五穀豊穣、万民豊楽のため開創された。天平三年(731)聖武天皇の夢枕に大内裏に示現し、天皇の命により行基が天照大神の長男にあたる天忍穂耳命(あめのほしほみみのみこと)と大己貴命(おおなむちのみこと)=大国主命らを祀ったのが始まりとされる。弁財天の由縁は、仁明天皇の承知元年(834)に慈覚太師が久しく眼病を患って悩んでいると天女が枕元に立って「我こそ竹生島の弁財天であるが、この薬を用いよ。そして我が姿(小像)をここに残して置くからこれを竹生島に祀れよ」と告げられ、目がさめて与えられた薬を服用すると眼病は立ちどころに平癒した。感激した慈覚大師が竹生島に祀ったその御本尊となる弁財天像は身丈約18cmの秘仏といわれ、普段は非公開で60年に一度公開(次回の開帳は2037年)されるという。現在お寺に行くと拝める弁財天はその分身にあたる。また宝厳寺は日本三大弁財天の中でも最も古い歴史を持つことから唯一大弁財天と称される。「江ノ島与願寺」(現在の江ノ島神社の前身)、「宮島(厳島神社)」も竹生島の影響を受けて創建され多くの武将や人々から信仰を集めて、さらにその影響は各地の弁財天へと広がった。宝厳寺は中世、豊臣秀頼による火災後の復興があったが、明治時代の神仏分離でしばらく本堂が失われた状態が続くも信者の強い要望などがあり廃寺の危機を乗り越えてきて1942年に現在の本堂が再建された。その本尊である弁財天は、『弁天5部経』『金光明最勝王経』などから推すと八臂弁財天で、その手には矛・宝珠・輪宝・弓・宝杵・鍵・矢・剣をもち、頭には宝冠を戴く宇賀神、鳥居(ない場合も)を頭上に載せた日本独特の宇賀神弁才天となる。

その手にもつ輪宝は元はインドの神様の宝物で、スピリチュアルな問題から身を守ってくれるという。


週刊NY生活No.1027 10/18/25 宝石伝説93縁起物と宝石「日本の神仏と習合した弁財天2」13

        縁起物と宝石「日本の神仏と習合した弁財天2」13

 

 日本古来の民族思想の中には龍蛇を神とし祖先とする思想が潜在するが、弁財天はそれとすこぶる関係が深く特には龍蛇そのものを弁財天とみることもあり、仏教の女神の中で一番日本に同化しやすい性質を持っていた。また当時の大楽思想から発する現生利益の希いの現世極楽のイメージは、弁財天を通じて龍宮にも重なるものがあった。宗像三女神を祀る北九州の島やその対岸、安芸の厳島、牡鹿半島南端方向にある金華山島、そして琵琶湖に位置する竹生島など諸所の池沼の中島や水辺の風光良くして神聖な場所と見られる所には、仏教で説く天上界であり極楽浄土として見なされ弁財天の居ます場所と考えられ龍宮の乙姫様のイメージにも合致した。また仏教で説く死後の極楽浄土ではなく、生きている時点で極楽を願う日本の古い伝承である龍宮世界の具現であり、日本古来の神と習合した弁財天にそれを託す希望があった。平清盛は青年時代の不遇の頃に弁財天に祈り位人臣(くらいじんしん)を極めて富裕になってから、奉賽のために現実の極楽浄土として厳島神社を龍宮に見紛うほど壮麗に建立した。

 弁財天は、このほかに農耕の豊穣を希う宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)や稲荷神と結びつき、大衆の理想郷を託す神として全国に広く祀られるようになり仏教・神道の別なき必須な神の存在であった。そして美貌の神・女性像としても理想的で、日本古来の女性尊重には相応しい対象であり、馴染みも深く女菩薩思想に適合していた。一方で、釈迦が悟りを開く直前までは夜叉などが恐ろしい姿で威嚇したり妖艶な女性の姿になって誘惑したという説話から、当時の一部の僧侶によって女性は軽視の風潮とともに不浄ゆえ成仏できぬとの思想もあった。だが、法華経「提婆達多品第十二」の後半部分に、即身成仏の証し:龍女が自らの男子の姿に変身し、たちまち仏となって妙法を説いたという説話がある。さらに一休和尚が遊女を拝したと同じく女性尊重で理解者であった当時の知識階級の1人者である九条兼実は『玉葉』の中で、
平安時代後期の天台宗の僧 澄憲僧都(ちょうけんそうず)の法話として、「一切の女人は三世諸仏の母であるが、一切の男子は諸仏の父ではない」という意味のことを記している。



週刊NY生活No.1023 9/20/25宝石伝説92縁起物と宝石「日本の神仏と習合した弁財天1」12

        
縁起物と宝石「日本の神仏と習合した弁才天 1」12


 奈良時代インドから伝承された、ラクシュミー女神を起源とする吉祥天は、当時、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説(神道の神々は、仏教の仏や菩薩の仮の姿であるという教え)があったにもかかわらず、富貴繁栄や家庭を護る神として仏教に取り入れられて、貴族階級の信仰を集め主尊として祀られるようになった。ところが平安時代に入ると『金光明最勝王経』に説かれている、弁舌・音楽・学問・除災・幸福を与える神である弁才(財)天がそれを凌ぐようになる。それは、吉祥天がインド以来の神として日本の神に習合しないのに対して弁才天は、宗像三女神の市杵島姫命や、食物・富貴・名誉・福寿を与えてくれる穀物の神であるウカノミタマノカミ(日本神話に登場する女神で『古事記』では宇迦之御魂神、『日本書紀』では倉稲魂命と表記する)と習合したことで、土地や水に縁があり関係する人々の信仰を捷ち取り、ほとんどの人間の願い欲望を充す神とみなされたからだ。神道系の信仰と仏教系の信仰が合体(神仏習合)し、にわかに弁才天信仰が盛んになったと思われる。ちなみに弁才天は、日本の神道系の神と習合する以前は、奈良時代の高貴女性の盛装姿(日本最古の像は東大寺の法華堂に安置されている唐服姿の八臂弁才天立像)で表現されたが、習合してからは天女形のスタイルになってしまったがゆえに、神道系の神が弁才天として民衆に馴染むのも早かったといわれる。『金光明最勝王経』によると日本において、インドにおける河水の神格化から生じた神であるサラスヴァティ–を元とする(河水のごとく流れて常にささやきの音響を発するがごとく能弁にて妙音を発するその手段として琵琶を弾ずる)ニ臂の「妙音弁才天」と、そのヒンドゥー教のサラスヴァティ–像とはまったく異なり八臂をもって自らを荘厳し、矛・宝珠・輪宝・弓・宝杵・鍵・矢・剣をもち、頭には宝冠を戴く「ハ臂弁才天」などがおもに存在する。その姿はまるで戦闘神のようだが、それらは人の幸せを妨害する悪神夜叉類を退治追い払う、怠惰なよこしまな気持ちを破壊する、福徳を希うことを邪魔する悪しき神を征服するための武器だという。後にウカノミタマノカミと習合すると、宇賀神、鳥居(ない場合も)を頭上に載せた日本独特の宇賀神弁才天となって左手には如意宝珠をもつ。

週刊NY生活No.1019 8/16/25 宝石伝説91縁起物と宝石「吉祥天女と如意宝珠」11

         
 縁起物と宝石「吉祥天女と如意宝珠」11


 伝承された日本最古の仏教説話集といわれる『日本霊異記』は、平安時代初期に書かれた『日本国現報善悪霊異記』の略されてた呼び方で、作者は私度僧となってから妻子とともに俗世で暮らし、後に薬師寺の官僧となった景戒(けいかい)である。その私度僧は、貴族を相手に袈裟をつけ念仏を唱えてさえいれば食べていかれる僧とは違い、善男善女のささやかなお布施だけが頼りだった。景戒は中年以降、各地を遍歴するうちに自然と伝承や世間話が耳に入ってきたことをネタにした話を説教の折に入れて聞き手を感心させ、その話題の広さと語り口のうまさで人気タレントだったといわれ、奈良~平安時代初期の人生と実生活の苦しみが滲みでた悪報説話を入れ、当時の人々の様子が伝わってくるところが『霊異記』の魅力だ。一方で、説話集(116話)のうち「夢」を題材(10話)とするなかで、最も興味をひかれるのは中巻第13といわれる。その話は、和泉の国の山寺に吉祥天を祀ってあったが、聖武天皇の御代に一人の優婆塞(うばそく=半僧半俗の行者の在家僧)がやってきてこの寺に住み、天女の像を一目見て恋に陥り、朝晩「天女の如き容好き女を我に賜へ」と祈った。するとある夜、天女の像と婚(くなか)う夢を見たので翌朝になって像をよく見ると、その腰衣に不浄のものが染みついて汚れていた。行者がつくづく恥じて「天女さまと似た人を願っていたのに、天女さまご自身と交わるのはどういうことでしょうか」と声に出して話していたところを聞いていた弟子は非難され追い出された。そして逆切れした弟子は里に下りると、村人にこのことを吹聴して回った。それにも応じることなく作者(景戒)は「信じることを心深くもてば神仏にも通じる」といった楽観的な感想まで加えている吉祥天女を題材にした内容となる。

 そのモデルとなった吉祥天女は、中国唐時代の豪奢な貴婦人の姿が特徴で、左手には意のままに願いを叶えるとされる「如意宝珠」を持ち、右手はその宝珠を差し出すような仕ぐさをしている。これは信濃国(現在の長野県)に伝わる優婆塞吉祥天画像といわれるが、一般的には奈良時代、麻布に描かれた「薬師寺吉祥天画像」(国宝)のことで奈良県の薬師寺に所蔵されている。ところで、日本の仏像の中で最も美しいと称賛されるのは、鎌倉時代初期に造られた(作者不明)とされる京都の浄瑠璃寺に鎮座する宝飾品を身に付けた絢爛豪華な「吉祥天(女)立像」(重要文化財)だ。



週刊NY生活No.1015 7/19/25 宝石伝説90縁起物と宝石「吉祥天女と宝飾品」10

          
          縁起物と宝石「吉祥天女と宝飾品」10


 天照大神や卑弥呼など、最近の古墳発掘例から女性の首長と思われる報告が多いのは、古来から女性を尊敬し神格化して仰ぐ傾向が強いことを示しそれは仏教伝来後も続いた。特に奈良時代、女帝となった光明皇后は観世音菩薩に見立てられるなど人々の仰ぎ拝む存在であった。平安時代、貴族たちは王朝文化を謳歌し極楽浄土を現実のものと希うために寺院を荘厳し現世利益を願ったので、人に幸せを与える天部の神への関心はさらに強まった。『金光明最勝王経』の中の大吉祥天女品にその功徳が説かれている吉祥天は至福をもたらす神で、主尊として特に宮中や一部貴族に厚く信仰されたために国家的見地からの信仰として、五穀豊穣鎮護国家のために祈られ、吉祥悔過会(毎年正月に、吉祥天を祀って災いを払い、福徳を招くことを祈る法会)が行われ盛んに信仰された。ちなみに弁財天信仰はそれに次いで盛んであったが、吉祥天信仰を凌ぐようになったのは平安時代末期からである。また吉祥天女は、七福神の中で紅一点となる弁財天の代わりに入るケースや、寿老人と福禄寿が同体異名とされるとその代わりに加えられ紅ニ点の七福神になる場合もある。吉祥天とは、美、幸運、繁栄、豊穣をもたらすヒンドゥー教の女神ラクシュミー(宇宙の創造・維持・破壊の三大神の中の維持を司るヴィシュヌ神の妃)を起源とし、仏教において「大吉祥天女」と呼ばれ父は徳叉迦龍王、母は鬼子母神とあり、日本においては毘沙門天の妃とされ、特に富と繁栄、家庭の安寧、金運向上、美貌をもたらす。その吉祥天女を題材にして作られた話が、日本最古の説話集『日本霊異記』(平安初期、延暦~弘仁の時代に生きた南部薬師寺の僧「景戒(きょうかい)」の編した仏教説話集)にある。この説話集は景戒の人生において感動し共鳴したことなどの条々を書き記したもので、赤裸々で生々しい人生観に裏付けされた人情の機敏をついた世間話を百十余話集めたものとなっている。そもそも日本の仏教は管の保護と統制を受けて発展を遂げており、坊さんになるのにも官許を要したが、そこからはみ出した坊さん志願者は、勝手に頭をまるめて「私度僧」となったがその1人が景戒で、しかも妻子もちであった。

ところで、吉祥天が豪華な装束に、宝冠、瓔珞、腕輪など身につけているのは、美しさや富そして幸福を象徴する重要な要素となっている。

 


週刊NY生活No.1015 7/19/25 宝石伝説89縁起物と宝石「諸天善神と宝飾品」9

          
           縁起物と宝石「諸天善神と宝飾品」9


 8世紀頃、義浄(唐の僧)自らインドから招来し経典を新たに漢訳した『金光明最勝王経』が日本に伝わると、聖武天皇は写経して全国に配布した。そして741年、仏教による国家鎮護のため各地に国分寺の建立を命じた。この経典の主な内容は、空の思想を基調とし、この経を広め読誦して正法をもって国王が施政すれば国は豊かになり、四天王をはじめ弁財天や吉祥天、堅牢地神(大地をつかさどる神)などの諸天善神の功徳が得られ国を守護するとある。本来の仏教は、人間が善行を積み修行して到達する悟りを得ることを目的とする。ところが、民衆が求めている現世利益を否定してしまうと布教上思わしくないことから仏教教団は発展していく上に、因果応報的な考えを加味した修行と善行を積んで信仰すれば現世にて利益があるといった方針に変えていく。したがって、主尊である如来や菩薩の護法神としての脇侍であった天部の神々は主尊として祀られるようになった。それらは、梵天・帝釈天・金剛力士・四天王・十二神将・十二天・八部衆その他と、女神は、吉祥天・弁財天・摩利支天・伎芸天・荼吉尼天・訶梨帝母。そのうち現益能力が最も優れる吉祥天と弁財天は、にわかに日本の人々に厚い信仰をうけるようになった。それは『記・紀』にある天照大神や、『魏志』倭人伝の卑弥呼など、元々昔から女性を尊敬する観念が深く根付いているからだ。一方で、日本古来の信仰も現世利益を願う神が対象であったから仏教が入って来ても天部の神々が好まれ、特に美しく慈悲溢れる麗容である女神には馴染みやすく親しみを感じていた。

 ところで、如来以外の菩薩や諸天善神などの仏像を見ると、宝冠をかぶり、瓔珞(ようらく)=ネックレスを付け、腕釧(わんせん)=ブレスレット、臂釧(ひせん)=上腕の飾り、足釧(そくせん)=足飾りなどの宝飾品を身に付けている。一般的には、出家前の王族だったころのお釈迦様の姿を象徴し、慈悲深い心を表現したとなっている。実際に、法華経にある七宝(金・銀・瑠璃=ラピスラズリ・玻璃=クリスタル・硨磲=しゃこ貝・真珠・玫瑰=ロードクロサイト)や、仏教用語の金剛不壊(きわめて堅固で決して壊れない)が由来となったインド原産の金剛石(ダイヤモンド)などを身に付けていた可能性は高い。おそらく当時から、宝飾品としてだけではなく、守護石としての役割を兼ねて身に付けていたと思う。