Jewelry sommeliere

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津延美衣(つのべみえ)NY州立大学FIT卒業。米国宝石学会鑑定有資格者(GIA-GG,AJP) 運命学・自然医学・アート・アロマテラピー・食文化などの知識を元に感動的な人生を描くプランナー・エッセイスト・キュレーター兼ジュエリーソムリエール(Jewelry sommeliere) 美時間代表。

2019年9月8日日曜日

週刊NY生活No737 8/17宝石伝説19 ティファニーの「ブルーボックス」1

              ティファニーの「ブルーボックス」1

  世界五大ジュエラーのひとつティファニー(Tiffany&Co.)は、1837年フランスで エルメス(HERMES)が創業した同年代、ニューヨークにてチャールズ・ルイス・ティファニー(Charles Lewis Tiffany)とジョン・バーネット・ヤング(Johon B. Young)によりティファニー&ヤング(Tiffany & Young)の創業を始める。当初は文具や装飾品の取り扱いからスタートし、8年後には世界初となるメールオーダーカタログ「ブルー ブック(BLUE BOOK)」を発行して話題になる。
  1848年、ティファニーに大きな転機が訪れる。ヨーロッパの王侯貴族などの貴重な宝石を購入しアメリカを代表とする宝石商としての地位を得たのだ。そしてティファニーの代名詞ともなる初のダイヤモンドジュエリーの販売を開始し、当時の報道陣から「キング・オブ・ダイヤモンド」と称された。一方で数年後には現在でも有名な銀製品の取扱いを始める。

 1853年、C・L・ティファニーは共同経営者たちから経営権を買取り、現在まで使用されているティファニー&カンパニー(Tiffany&Company)に改称してティファニーはマンハッタンの中で何度か移転を繰り返し、1940年に現在の場所に移転。今でもボックス、フランネル(巾着袋)、などで活躍するアイコニックのティファニーブルー(イギリスのヴィクトリア朝時代、重要な台帳の表紙に使用され大切なものを表す色とされた「こまどりの卵」の青色)をカンパニーカラーとしたのは「我が社の商品はどれも気品高くあらねばならない」という信念と合致したからだ。1906年、ニューヨークサン紙に掲載されたブルーボックスにまつわる有名な記事がある。「ティファニーは、いくらお金を出されても売らないものが一つだけあります。ただしお客様がティファニーの商品をお求めいただければ無料で差し上げます。それはティファニーの名が記された箱です」。その価値感を大切にしてたのだ。品格漂うブルーボックスには同じく祝福、純粋、純真、完全など象徴的な意味をもつ白いリボンが結ばれ、リボンの端を引っ張ると簡単にするりとほどけるようラッピングに至るまで気配りをした。シンプルだが全美で現代のミニマリズムさえ感じさせられる。

2019年8月3日土曜日

週刊NY生活No733 7/20 宝石伝説18 ミキモトとアコヤ(養殖真珠)下

                        ミキモトとアコヤ(養殖真珠)

  1920年代、左右対称の機能的な美を追求したアール・デコは、パリ、ニューヨーク、ロンドンなどで同時発生的に流行した。それにマッチする、サイズと色合いが揃うアコヤ(真円養殖真珠)は時代の申し子となる。特にアコヤのロープは、空前絶後の人気を誇り生産も急増した。1929年、米国ウオール・ストリートの株が暴落し、大恐慌が始まるや否なや天然真珠も影響を受けて欧州でも取引ができない最中、天然、養殖、模造に限らず「真珠」はモードと切り離せない関係にあった。シャネルはそれまでの「ドレスにはコルセット」の概念を打ち崩し、体を締め付けない、ストンとした膝丈の黒いドレス『リトル・ブラック・ドレス』に真珠を合わせた。このテーゼに多くの女性が共鳴し、パーティーに欠かせないスタイルとなる。さらに真珠人気に拍車をかけたのがパリモード界だ。戦後、ディオールは優雅で女らしいスタイルのドレス(ウエストをしぼり、スカートを膨らませる)に真珠を合わせた。そして中産階級が台頭する大量消費社会のアメリカに進出して、ハリウッド映画のヒロインらの定番スタイルとなる。G・ケリーはその後モナコ公妃になるが、いつも真珠のネックレスが胸元で優麗な輝きを放っていた。M・モンローは、ハネムーンで来日した際、NY・ヤンキーズのJ・ディマジオから贈られた、ミキモトの真珠ネックレスを付けて人前に現れたことは有名だ。また、映画『ティファニーで朝食を』の冒頭で、早朝ジバンシイの黒いロングドレスを装ったO・ヘップバーンはタクシーから降り、少し千鳥足でNY5番街のティファニーのショー・ウィンドウに向かう。その背中は大きく開き豪華な何連もの真珠が重なり、紙袋からパンを取りだしほおばる彼女の姿は魅力的だ。

  アコヤは、天然真珠の価値を暴落させたことで排斥運動が続いたが、敗戦後状況は一変する。GHQによる日本統治が開始されると、来日する進駐軍将兵たちは愛する人に真珠を贈るため、帝国ホテルのミキモト真珠店に列をなした。また英盧湾にあるミキモト真珠養殖場はメッカとなり、マッカーサー夫人、米軍高官やその家族が真珠王(御木本幸吉)に会いに訪れた。1954年他界する(享年96歳)もミキモト参りは絶えず、世界に冠たる英国女王まで引き寄せるほど『ミキモトのアコヤ真珠』は威光を放ち現在に至っている。

週刊NY生活No.729 6/15 宝石伝説17 ミキモトと(養殖真珠)上

                      ミキモトとアコヤ(養殖真珠)上

  今日市場に出回る天然真珠は過去数百年にほぼ収集されたもので、大半は養殖真珠だ。数種類あるその中で、万国共通のアコヤ「Akoya」と呼ばれる養殖真珠は日本が世界に誇る宝石だが、元来天然ものは日本の固有種ではない。北緯10~30度に分布する東南アジア周辺の海域、アラビア、南インド、南米ベネズエラなどの陸地に入り込んだ湾に生息し、古代文明の各王国を虜にするほど最高な宝石だった。日本には遡ること約1万4000年前、黒潮の流れに乗り九州沿岸と三重の英盧湾など九州以北に到達した。『魏志倭人伝』によると、卑弥呼の後を継いだ壱与が中国に使節を送り献上した白珠500孔は、鹿児島湾に生息するアコヤ真珠といわれる。天然真珠の世界では、丸く美しい真珠が誕生するのは1万個に1、2個とされる(諸説あり)。それらを5百個集めるには相当数が必要で、繰り返し海に潜る漁労活動を営む集団とそれを支配する集中的な権力がその地に存在したのではと新たな邪馬台国論争が浮上する。
  コロンブスのアメリカ新大陸発見も、膨大な富と権力の象徴である真珠を欧州の君主たちにもたらし、やがて真珠貝採取漁業は急速に発展しいく。その一方で、乱獲や長時間の潜水により無数の人々が聴覚や感覚を失い、無尽蔵だと思われていた真珠貝は次第に減少する。すると真珠に対する欲求は高まっていった。

  1893年、御木本幸吉は世界で初めて半円真珠の養殖に成功した。それが元となり1900年代初頭、御木本(ミキモト)、見瀬、西川、上田、藤田らと真円真珠形成法を確立した。商業生産が本格化するとミキモトは英仏など海外に支店を出し、天然真珠がちょうどバブル時代を迎えて価格が高騰するなか価格を下げて販売を始めた。ところが、1921年ロンドンの夕刊紙『スター』が養殖による真珠を「ニセ真珠事件」としてとりあげ大騒動となるが図らずも英仏の真珠シンジゲートは天然と養殖の違いを見分ける術がなく、養殖真珠がいかに素晴らしいかを知らしめる結果となった。その騒動はフランスにも飛び火して、パリの真珠市場は一時閉鎖する。当時、高価な天然真珠のネックレスは支配階級やブルジョワだけが身に付けられる特権で、天然ものに引けを取らない養殖真珠が出回り価格が暴落するのを恐れたのだ。

2019年6月7日金曜日

週刊NY生活No.725 5/18/19'宝石伝説 16「ファベルジェのイースターエッグ」下

            「ファベルジェのイースターエッグ」(下)

  最後のインペリアル・イースターエッグといわれる『聖ゲオルギウス勲章』。1916年、ニコライ2世から母親の皇太后マリアに献呈されたもので、エッグの表面にはボタンがある。それを押すと、ゲオルギウスの十字架のところに皇帝と息子の皇太子アレクセイの肖像が表れる。これはファベルジェの皇室関連の作品の中で唯一、マリアが亡命先に所持していたものだ。
  これらのエッグは、ロシアの皇室だけではなく、チャーチル首相夫人、ロスチャイルドの分家、ロシアの実業家などごく限られた客の注文にも応じていたが、ロシア革命が起きたことでロマノフ朝の宮殿は荒らされ国外へ散逸した。そして最多のファベルジェのイースターエッグ(9個)を所有してたのは、アメリカの経済誌「フォーブス」の元発行人マルコム・フォーブスで、自身が経営するニューヨークのギャラリーで展示していた。彼の死後遺族により、2004年サザビーズのオークションに出品され、ロシアの大富豪にまとめて落札されたその金額は、当時の史上最高額1億ドルに達したという。購入者イヴァノフと代理人ヴェクセリベルグは「ロシア国民として国の歴史と文化を伝える貴重な品、世界最高峰の宝飾品を守ろうとした」とテレビの取材に答え、こうして2013年11月サンクトペテルブルクにファベルジェ美術館を開館した。
  現在約55個のファベルジェのエッグの内44個の所在が判っておりロシアが最多数を誇る。その次はアメリカで、財力と人脈によりそのコレクションを築いた屈指の蒐集家が5人いる。その1人が1929年に創業したゼネラルフーズの社主でアメリカ随一の女性大富豪マージョリー・メリウエザー・ポストだ。ダイアモンドがふんだんに散りばめられた巨大なエッグを2個所有し、遺言により彼女の立ち上げた財団に寄託し、現今はワシントンD.C.に私設美術館として開館したヒルウッド庭園美術館に所蔵・管理されている。ちなみに、アメリカ大統領D・トランプの別荘マー・ア・ラゴ(フロリダ州パームビーチ)を建設した彼女は、多くの歴史的な宝飾品と縁が深い。

週刊NY生活No.721 4/20/19'宝石伝説 15「ファベルジェのイースターエッグ」上

             「ファベルジェのイースターエッグ」(上) 

  昨年、デイズニー映画『くるみ割り人形と秘密の王国(The Nutcracker and the Four Realms)』が公開された。時代はヴィクトリア朝のロンドン。物語のキーとなるのが、主人公クララに亡き母が残した金色の卵型の飾り物。「この中には貴方が必要とするものすべてが入っています」と手紙が添えられていたが、鍵が見当たらず、それを探すためにミステリアスな4つの王国からなるパラレルワールドへ旅たつ。ようやく鍵を見つけて戻り、開くとオルゴール付きの鏡になっていて中は空っぽ。鏡には母が居なくなってから心を閉ざしたままの自分が写っていた。そしてハッと家族の大切さに気づく。母はそんなクララの心の鍵を開けてくれたのだ。
  映画に出てくる卵型の飾り物とは、インペリアル・イースターエッグをモデルにしたと思われる。それは1885年から1916年の間にロシアの金細工師ファベルジェが製作した大半がロマノフ朝ロシア皇帝アレクサンドル3世と息子のニコライ2世に納められたもので、宝石で装飾された金製のイースターエッグ約55個を指す。希少性が高く現在1個あたりの価格は推定3億5千万~20億円といわれる。最大の特徴は、装飾の美しさだけではなく精巧な仕掛け(サプライズ)にある。

  1885年、皇帝は結婚20周年の記念に、皇后マリアの出身であるデンマーク王家の所有する18世紀初頭のフランスのイースターエッグを参考にファベルジェに製作させた。これは金の素地に白いエナメルを厚塗りした簡素なヘン・エッグ(雌鶏の卵)で、中に金の黄身を仕立て、またその中に色味の異なる金を使った雌鶏が現れる。さらに小さなダイアモンドの王冠とルビーのペンダントが入っていたという。その後、次第に豪華な飾りと複雑な仕掛けが施されていく。なお、ニコライ2世の戴冠に際して作られたエッグは、1897年のイースターの時に皇后アレクサンドラに贈られた。表面はエナメルが散りばめられたプラチナで、ダイアモンドとルビーが装飾されている。その中にすべての可動部分を再現したエカテリーナ大帝の馬車の精密なミニチュアが仕込まれている。

週刊NY生活No.717 3/16/19'宝石伝説 14「バローダの月」下

        「バローダの月」下

  1914年に第一次世界大戦が勃発すると、イギリス領だったインドも参戦を余儀なくされ経済的にも疲弊した。その影響はマハラジャにも及び、当時バローダの月を所有していたサヤジラオ・ガエクワド3世は、財政を立て直すべく多くの宝飾品とともにバローダの月も放出した。その後は長きにわたり行方不明になってしまう。
  バローダの月が再び表舞台に姿を現したのは、それから約40年後の1953年アメリカのハリウッドにおいてであった。所有者はデトロイトの宝石商メイヤー・ローゼンハイム。彼は自社の宣伝のために、ハリウッド女優にこのダイヤを身に付けさせることを思いつき、当時新進女優として注目を集めていたマリリン・モンローに白羽の矢を立てた。1926年にアメリカのロサンゼルスで生まれた彼女は20世紀を代表する大女優。真っ赤な口紅を塗った唇、目元のホクロ、モンロー・ウオークといわれた独特の歩き方がセクシーで、「アメリカの恋人」、「20世紀のセックスシンボル」などと謳われた。これを受けて制作されたのが1953年公開の「紳士は金髪がお好き」でモンローの代表作の一つであるミュージカル映画だ。バローダの月を身につけながら、彼女は「ダイヤモンドは女の子の1番の友達」と歌う。当時ダイヤモンドは裕福な人々が所有するもので、現在のような婚約指輪の定番である身近な宝石ではなかった。その頃まだ庶民的な女優であった彼女がバローダの月を身につけることにより、手の届かなかったダイヤモンドが庶民の憧れとなり、ダイヤモンド業界が活性化したともいわれている。作品の大ヒットがきっかけとなり、彼女は大女優の道を歩む。また、映画のプロモーションの際に、モンローがこのダイヤを身につけた妖艶な姿が新聞や雑誌でたびたび取り上げられ、世界で最も有名な宝石となった。

  2012年テレビ東京の番組「開運なんでも鑑定団」に、バローダの月の所有者である日本人の男性が出演した。その鑑定額は1億5000万円だったが、現在この宝石は再び消息不明となっている。

週刊NY生活No.713 2/16/19'宝石伝説 13「バローダの月」上

                          「バローダの月」上

 「バローダの月を身にまとった者は世界に名高い人物になる」という伝説がある。それは、その輝きがまるで月の光のようで、Moon of Baroda(バローダの月)と呼ばれた世界的に有名なファンシーイエローダイヤモンドのことである。
  一般にダイヤモンドの色は無色から淡黄色であり、業界で使用されるDからZのカラーグレーディング スケールにより表示される。 一方でファンシーカラーダイヤモンドは、フェースアップでZの範囲を超える色を呈するイエロー及びブラウンのダイヤモンドが多く、その他あらゆる色があるが、その色合いによって希少性は高まる。通常ダイヤモンドは着色が見えるほど価値が下がるが、 ファンシーカラーダイヤモンドではこれと正反対になる。その価値は一般的に色の濃さと純度に応じて高くなり、 大きくて鮮やかなファンシーカラーダイヤモンドは極めてまれであり、殆どは純度も濃さも低いものが大半だ。 
  インド北西部のバローダで産出された、24.043カラットのペアーシェイプ(洋梨型)にカットされたバローダの月は、その当時この地を治めていたマハラジャのガエクワド家が長い間秘蔵していた。18世紀に入り、このダイヤの新たな所有者になったのは、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公、ハンガリー女王、ボヘミア女王で、ハプスブルク帝国の領袖であり、神聖ローマ帝国の女帝マリア・テレジアであった。彼女の手に渡った経緯は定かではないが、一説によると、父のカール6世の時代からガエクワド家と交易があった関係で譲渡されたという。彼女は宝石をこよなく愛したことで知られ、数多くの肖像画にも描かれている。なかでもバローダの月は特別で、ハプスブルク家の家宝として受け継がれた。しかし1860年にこのダイヤは再びインドに舞い戻る。熱烈な宝石収集家だったマハラジャのムルハルラオ・ガエクワドが、莫大な財力に物をいわせかつての家宝を買い戻したからである。