Jewelry sommeliere

自分の写真
津延美衣(つのべみえ)NY州立大学FIT卒業。米国宝石学会鑑定有資格者(GIA-GG,AJP) 運命学・自然医学・アート・アロマテラピー・食文化などの知識を元に感動的な人生を描くプランナー・エッセイスト・キュレーター兼ジュエリーソムリエール(Jewelry sommeliere) 美時間代表。

2023年7月2日日曜日

週刊NY生活No.913 5/20/23'宝石伝説64山梨と宝石「日本の神々『天の岩戸』1」37

       
 
山梨と宝石「日本の神々『天の岩戸』1」37

 

 戦前の日本にて天皇は『天照大神』の子孫で、「現人神(人の姿で現れた神)」であると学校で教えられていたが、現在においてそのことは神話であって科学的な史実とみなされていないという。そもそも日本の天皇は、初代神武天皇から第9代開化天皇までは実在性が薄い天皇とみなされているのだ。そしてヤマト政権の初代大王は第10代崇神天皇とされ、その在位は3世紀後半から4世紀前半というのが定説だ。一方で、「古事記」や「日本書紀」に記された神話は、何らかの歴史的事実が背景にあるという見方も一般的になっている。その崇神天皇の側にあったというモモソヒメノミコト(百襲姫命)は神を憑依させる巫女的な女性として『日本書紀』に登場するが、『魏志倭人伝』にある『鬼道』をもちいて国の大事を占い、神託を告げる巫女(シャーマン)であったヒミコ(卑弥呼)と重ってくる。邪馬台国(やまとこく)域内説の有力候補地でもある、宮内庁により陵墓として管理されている奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡内にある箸墓(はしはか)古墳(モモソヒメの墓に治定)は、古墳群でも盟主的な全長約280mの堂々たる姿で、後円部の直径は約150mある日本最古級の前方後円墳とされる。そして『魏志倭人伝』のヒミコの墓の大きさ『径百余歩』(約180m)に近いことから古くからヒミコの墓の説がとなえられてきた。さらに、箸墓古墳の築造年代はずっと3世紀後半とされていたが、近年に箸墓古墳周辺から出土した土器を最新の年代測定法で科学調査をしたところ240~260年という測定結果がでたことから、ヒミコの没年は3世紀中頃の247~248年と推定されているのでほぼ一致することがわかった。このことから、箸墓古墳=ヒミコ墓、モモソヒメノミコト=ヒミコといわれる。なお、後に伊勢神宮に祀られたアマテラスも、それ以前は崇神天皇の居所に祀られていた。そのアマテラスにまつわるたくさんの神話のなかでも最も有名なものが「天の岩戸伝説」だ。岩戸に姿を隠したアマテラスを引きだすために八百万の神々が天の安河原に集まり会議をひらき、タカミムスビ(高御産巣日神)の子のオモイカネ(思兼神)が指揮をとることになりそれぞれの役割を決めた。それらの神のひとりに天性の美声の持ち主であるアメノコヤネ(天児屋根命)がいる。

その天児屋根命にちなんだペンダント、言霊(KOTODAMA)が株式会社クロスフォーからでた。 

2023年5月10日水曜日

週刊NY生活No.909 4/15/23`宝石伝説63山梨と宝石「日本の神々『大国主命とスクナヒコノミコト』3」36

  山梨と宝石「日本の神々『大国主命とスクナヒコノミコト』3」36

 

 『記紀』によると、大国主命が出雲国のイナサの浜辺で食事をしているとき海の向こうから神がやってきて「スクナヒコノミコト」というが誰のことだがわからないので、神産巣日神(日本神話の根源神のひとり)に尋ねたところ、「私の生んだ多くの子供のうち、教えに従わないでどこかへ行ってしまったのが帰ってきたにちがわない。仲良くしてください」と答えた。この神は大国主神とともに国造りをおこなった「少彦名神」のことで、漢字は当て字だ。ある説によると、邪馬台国(やまとこく)の王位に上伽耶の女王卑弥呼が就き、そして出雲出身のやはり太陽信仰王族である昔(せき)氏(出雲の関家)=(スクナヒコ)がほぼ190年間、新羅(伽耶)国の王座に君臨していたが王座を追われ、西暦356年、熊信仰王族「金氏」にとって代わられたあと、根(母)の国である出雲に帰国したというのが真相のようだ。それと重なる伝説が高麗王朝の正史『三国史記』にて「新羅の『昔脱解王』は海を渡ってきた」とある。「スクナヒコ」とは「良い国の貴い人」の意味らしく、「スク」が変化して「ソガ」となり、蘇我氏は昔氏の後裔になるとのこと。さらに日本史上、もっとも謎につつまれた人物とされる武内宿祢「タケウチスクネ」(著名な豪族の始祖で、皇極天皇の時まで歴代の大臣として皇室をしのぐ勢力をもった蘇我氏の始祖)が登場する。300歳以上生きてたことになるふしと、風土記のなかにこの名前がないことから個人名ではなく、「スクナヒコ」と同じ意味に使われた名前とすると辻褄があうという。スクネは神功皇后を操ってまで熊襲金氏から新羅の王座を奪還すべきその手を片時もゆるめなかった一方で、列島では熊信仰族による第二期大和王朝が始まった。その後、蘇我の本家は645年のクーデターによって滅びるもその分家の勢力は強く残存し、663年の「白村江の戦い」に倭国は引き込まれていく。まもなく列島の「倭」は存在しなくなり、670年「日本」の国号が初めて使われたと『唐書』などに記されている。最後に、大国主命が祀られた『出雲大社』の参拝方法は、『ニ礼四拍手一礼』と一般的な『二礼二拍手一礼』と異なる。また、旧暦の10月を『神無月』というが、全国にいる八百万の神が集まる出雲では『神在月』と呼ぶこの伝承は、オオクニヌシが偉大な存在であったことを物語る。

さて、その大国主神にちなんだリング、慈愛(JIAI)が株式会社クロスフォーからでた。

 


週刊NY生活No.905 3/18/23` 宝石伝説62山梨と宝石「日本の神々『出雲国の主人公 大国主命』2」35

   山梨と宝石「日本の神々『出雲国の主人公 大国主命』2」35


 弥生時代、渡来してきた太陽崇拝する民族のウガヤ(上伽耶)、アラカヤ(下伽耶)が
「記・紀」に「大和根の国」と記される出雲国を開拓し、アラカヤは出雲に残りウガヤは東に進んで現在の斑鳩(イカルガ)と呼ばれる地域を中心に勢力を拡大していった説があるが、それは地域名などの呼び方から裏付けられるという。例)「出雲神社」はアダカヤ神社と訓し、「斑鳩」はウガヤカ(=処)が動いて(イゴク)→イカルガに転じたもの。さらに、ウガヤ=ヤマト(太陽の土地を意味する)=ヤマハト=斑鳩とのこと。さてその一方で、「熊信仰」(日照りがつづく干害から、雨を降らす「黒い雲」を祈願するようになった人々のこと)するクマソ(熊襲)と呼ばれた渡来人が九州にやってきて自分たちの故郷とし定着するもやがて東征を始めた。そのことに危機感を感じた太陽信仰する景行天皇は、息子である小碓命(オウスノミコト)=(ヤマトタケル)に彼らの本拠地である九州征伐に乗りだす命を下した。そして見目うるわしい美少年だったオウスは女装し、クマソの頭目の川上梟帥(かわかみたける)を油断させて討った。目頭は、「わが国では、私より強いものはおりません。これからはヤマトタケル(日本武尊)と名乗って下さい」といって息絶えたことは今でも語り草になっている。

 やがて、西暦360年代になると太陽信仰族の最後の王といわれる仲哀天皇(ヤマトタケルの子)の死をもって、ヤマトの国は熊信仰族による第二期大和王朝が成立し、仁徳天皇以下、河内王朝を経て現在まで続いているという。そのことは、出雲国の主人公であったオオクニヌシ(大国主命)=「意宇国之主(オウクニノヌシ)」の「意宇郡(おうぐん)=出雲国最大の郡」に祭られるべきであった出雲大社が、意宇国(出雲)の端に創建され、『熊の権現』を祭る出雲国一の宮・熊野大社が出雲国最大の意宇郡(おうぐん)松江市郊外の山間、意宇川沿いに建立された由縁であると思える。さらに、出雲大社の祭祀を代々担う出雲国造家が、元は本拠地であったこの辺りに熊野大神を奉斎したのは古代出雲において最も重要な神社だった可能性が高いという。

 さて、神話のなかでも因幡の白兎を救った心優しい大国主命の良縁をモチーフにしたペンダント慈愛(JIAI)が株式会社クロスフォーからお目見えした。


週刊NY生活No.901 2/28/23` 宝石伝説61山梨と宝石『出雲国の主人公 大国主命』1」34

   山梨と宝石「日本の神々『出雲国の主人公 大国主命』1」34 


 「記・紀」の神代条に五穀や蚕の発祥が豊葦原の中津国=出雲国とかかれているこ
とは、古代出雲王国はあまねく大陸文化の上陸地であり大和国にさきだつ先進国であったことを示している。その所在地は今の出雲市ではなく、島根県を代表する郷土民謡の「安来節(やすぎぶし)」が誕生した安来の周辺だったという。島根県埋蔵文化センターの資料によると、2003年の時点で弥生時代中期~古墳時代後期にかけての10,048ヶ所の遺跡が発見されている。それらの古墳の経時的な推移をみると安来→松江→出雲の変遷が確認されており、さらに四隅がヒトデのようにとびだした出雲神族とくゆうの大型墳丘墓の四隅突出型墳丘墓(しすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)が見つかっており、山陰地方東部から北陸地方南部にかけて首長のあいだに強い結びつきなど政治的勢力の同盟関係があったのではと推測されている。副葬品には銅鏡・ガラス製品・鉄剣・馬具・大量の銅剣などが見つかっている。それらのことからも最初に出雲ありきではなかったようだ。安来市だけでなく出雲市にも大型の古墳があり、弥生時代後期には出雲地方の東西に2大勢力があったと考えられ、それらは太陽を崇拝する渡来人だったといわれる。山陰地方に渡来した天津神、出雲族といわれるイザナミノミコトが鎮座する日本最古の大社造の国宝『神魂(かもす)神社』も松江市にある。

 ところで、出雲国の主人公であったオオクニヌシ(大国主命)は「意宇国之主=オウクニノヌシ」である以上「意宇郡(おうぐん)=出雲国最大の郡」に祭られるべきであるのに、出雲大社は意宇国(出雲)の端に建てざるおえなかった。その背景には一般的に知られている「国譲り」が行われたとされている。実際には「記・紀」にこの文言はどこにも記述はないとのことだが神話によると、アマテラス(天照大神)は、豊葦原の中津国を孫のニニギノミコト(瓊瓊杵命)に統治させようと考え、アマノトリフネ(天鳥船)を従えたイザナギノミコトの子であるタケミカヅチ(建御雷神)に、国譲りをオオクニヌシノミコトと談判させて成功したとされる。

 さて、大国主命がスサノウノ命から出された難題で拾ってきた鳴鏑の矢をモチーフにデザインしたペンダント、鳴鏑(NARIKABURA)が株式会社クロスフォーからお目見えした。


週刊NY生活No.897 1/21/23` 宝石伝説60山梨と宝石「日本の神々『スサノウノミコトと草薙剣』」33

  山梨と宝石「日本の神々『スサノウノミコトと草薙剣(くさなぎのつるぎ)』33


 スサノウは、『記・紀』ではアマテラス・ツクヨミとともにイザナギ・イザナミの
子の「三貴神」の一人として位置付けられているが、その姿は一様ではなく多くの顔をもつ。京都の八阪神社では「牛頭天王」(新羅から渡来したヒポコと同一されているツヌガアラヒトのこと)、カマドの神である「荒神様」「山の神」「田の神」「道祖神」など。また、「氷川神社」「八雲神社」「熊野神社」などの祭神として祀られている。妻は何人もいて、ヤマタノオロチ退治のときに救った1、クシナダヒメ(櫛名田比売命)で子どもは宗像三女神、2、カムオオイチヒメ(神大市比売)との子は、ウカノミタマノカミ(宇迦之御魂神)、3、サシクニワカヒメ(刺国若比売命)との子に出雲大社の主祭神の大国主命など。

 当時、古代出雲王国はあらゆる大陸文化の上陸地であり大和国にさきだつ先進国であったことは、『記・紀』の神代条に五穀や蚕の発祥が豊葦原の中津国=出雲国であると書かれていることが証明している。『播磨国風土記』にも仁徳天皇が隠岐、出雲、伯耄、因幡、但馬の五国から国造りを召したところ、彼らが召使いを水夫に仕立てて回航してきたのは不届であると口実をつけて、播磨にとどまらせ田作りをさせた。因幡をイナバというのも、この地が「稲場」であることを示しており、天皇家の先祖の祭りごとに使う米をおさめる土地であった。

 さて、高天原で暴れたスサノウは追放され、イソタケル(五十猛)の神々をひきつれてまず「新羅」にくだりそれからこの「出雲」にやってきた。ある説によると「ヤマタノオロチ」とは、「ヤマタ=アマタ=大勢」オロは「高麗」の音韻の変化したもの、チは人とのことで、オロチ=オロの地からやってきた人という意味に使われた呼称で、製鉄の技術など中国の進んだ文化を引っさげて渡来してきた高句麗族の暴虐からスサノウが伽耶族の人々を救い出した物語のようだ。さらに物語は、スサノウの剣が伽耶の銅剣のためオロチの鉄剣に触れて刃が欠けたことから、鉄は権力の象徴となりオロチから手に入れた「くさなぎ(草薙)の剣」は、権力の伝達を意味する皇位継承の儀式につかう3種の神器の1つとなる大きな意味合いをもつ背景にもなっている。

それをモチーフにした厄除けにもなるペンダント草那藝之大刀(KUSANAGINOTACHI)が、株式会社クロスフォーからお目見えした。


週刊NY生活No.894 12/17/22` 宝石伝説59山梨と宝石「日本の神々『スサノウノミコトとヤマタノオロチ』32

 山梨と宝石「日本の神々『スサノウノミコトとヤマタノオロチ』とジュエリー32


 天孫降臨(てんそんこうりん)とは、ニニギノミコト(邇邇藝命)が祖母であるアマテラスオオミカミ(天照大神)の命を受けて高天原から日向国(宮崎県)の高千穂に天下ったことをいう。アメ(天)とは現実に生活している自国から遠く離れた異国をあらわす呼び名で、そのことから『天つ神』は縄文時代や弥生時代に日本の国土以外から新しい文化をたずさえて渡来した祖先といわれる。一方で、それ以前の石器時代、葦原中津(日本の大地のこと)で生まれた、タカミムスビノカミ(高御産巣日神)など北方系天孫種族といわれる日本の国土に住みついていた『国つ神』が存在した。天つ神は、稲作や機織りをもたらした韓国の南部に位置する伽耶(新羅)や、百済、そして製鉄技術をもつ北部の高句麗から渡来してきたという説がある。母権社会文化に由来する太陽神のオオヒルメ(大日孁)「最も古い日本特有の称号の一つ」とは、神霊交感をおこないそれを伝達する女性シャマン(巫女)のアマテラスを指すが、伽耶族といわれる物部氏が信仰する天磐船(あまのいわふね)に乗って舞い降りてきた天つ神(正式名は、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊で天火明命(アメノホヒカリ)の別名をもつニニギノミコトの兄『ニギハヤギ』であると推測する方がいるといったミステリアスな存在である。『日本書紀』の第10代崇神天皇の6年の条によると、宮中に「アマテラスオオミカミ(伽耶族)」と「ヤマトノオオクニタマノカミ倭大国魂(高句麗族)」の二神を一緒に祀っていたが、「国内に疾病がはやり、背くものがあって政治をすることが難しい」と恐れをなして、アマテラスを伊勢に鎮座させたのだ。すなわち、縄文晩期から弥生時代の末期までの日本列島内では、稲作文化をもたらしたとされる伽耶族(のちに製鉄の知識まで身につけ始めたその勢力はしだいに大きくなっていく)と、鉄文化を伝えた中国に隣接する高句麗族の間で抗争が絶えまなく続いていたという。その代表的なことがらが、スサノウ(素戔嗚命)によるかの有名な、農民を苦しめていた「ヤマタノオロチ」の退治だ。

さて、株式会社クロスフォーから、スサノウノミコトのヤマタノオロチ退治の神話をモチーフにデザインしたペンダント征討(SEITO)がでた。

週刊NY生活No.890 11/19/22` 宝石伝説58山梨と宝石「日本の神々『天照大神と八咫の鏡4』」31

     山梨と宝石「日本の神々『天照大神と八咫鏡(やたのかがみ)4』」31


 皇室継承のレガリアとされる「三種の神器」に、八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾
玉(やさかにのまがたま)、草薙の剱(くさなぎのつるぎ)がある。『記・紀』の伝承によると、現在でも伊勢神宮に祀られている御神体である八咫鏡は、アマテラスを天の岩戸隠れからだすために八百万の神が天安河辺(あまのやすのかわら)に集まって協議し、タカミムスビノカミ(日本神話根元神)の子オモイカネノカミ(思兼神)の発案によって、八尺瓊勾玉とともに飾り立てられた。その後、アマテラスは孫のニニギノミコトに八咫鏡を与え「この鏡を見ること、われを見るごとく斎きまつれ」と命じたとされる。一方で、熊襲の反乱鎮圧のとき築紫に出陣した神功皇后と仲哀天皇を出迎えた豪族の熊鰐(くまわに)や五十迹手(いとで)らは船に立てた木の枝にこの三種の宝を掲げて献上し誠意を表したことが記されている。

 中国で物象をうつす器物として「鏡」という文字が用いられたのは、紀元前3世紀ごろの周時代の末期といわれる。今まで発掘されたほとんどが円い鏡で、背面の外側の周囲に幾何学的文様をほどこし内側に龍虎や鳥獣を浮き彫りにして鋳られ青銅面は磨かれていた。日本(北九州)に最初に伝わった鏡は前漢時代の直径15センチぐらいの大きさだが、『魏志倭人伝』によると邪馬台国の女王卑弥呼は魏王から「汝の好物」として銅鏡百枚を賜与されたと記されていて、弥生遺跡や古墳の出土品から数多く見つかっている殆どは凸面鏡になっており単なる姿見ではない。この鏡を太陽に向けて立てるとどちらの方向からもギラギラと輝いて見えることから、鏡は権力者の所在を誇示するためのものと考えられていた。また、『古事記』の応神天皇の段には、新羅王の子、天の日矛(ヒボコ)が新羅から持ってきた宝の中に「澳津(おきつ)鏡」と「辺津(へつ)鏡」のセットがあるこれらは、「陸上鏡」と「海上鏡」であり、勾玉・剱とともに太陽の運行などを利用した方位決定のための測量機器として用いられていたと仮説をたてて実証されている多くの古代史研究家がいる。そして、太陽の異名「日輪」にたとえられる神、すなわち天照大神と結びついていく。

 株式会社クロスフォーの天地開闢シリーズのペンダント八咫鏡(YATANOKAGAMI)は、太陽の光に煌めく、まさにアマテラスオオミカミの御神体のよう