山梨と宝石「日本の神々『大国主命とスクナヒコノミコト』3」36
『記紀』によると、大国主命が出雲国のイナサの浜辺で食事をしているとき海の向こうから神がやってきて「スクナヒコノミコト」というが誰のことだがわからないので、神産巣日神(日本神話の根源神のひとり)に尋ねたところ、「私の生んだ多くの子供のうち、教えに従わないでどこかへ行ってしまったのが帰ってきたにちがわない。仲良くしてください」と答えた。この神は大国主神とともに国造りをおこなった「少彦名神」のことで、漢字は当て字だ。ある説によると、邪馬台国(やまとこく)の王位に上伽耶の女王卑弥呼が就き、そして出雲出身のやはり太陽信仰王族である昔(せき)氏(出雲の関家)=(スクナヒコ)がほぼ190年間、新羅(伽耶)国の王座に君臨していたが王座を追われ、西暦356年、熊信仰王族「金氏」にとって代わられたあと、根(母)の国である出雲に帰国したというのが真相のようだ。それと重なる伝説が高麗王朝の正史『三国史記』にて「新羅の『昔脱解王』は海を渡ってきた」とある。「スクナヒコ」とは「良い国の貴い人」の意味らしく、「スク」が変化して「ソガ」となり、蘇我氏は昔氏の後裔になるとのこと。さらに日本史上、もっとも謎につつまれた人物とされる武内宿祢「タケウチスクネ」(著名な豪族の始祖で、皇極天皇の時まで歴代の大臣として皇室をしのぐ勢力をもった蘇我氏の始祖)が登場する。300歳以上生きてたことになるふしと、風土記のなかにこの名前がないことから個人名ではなく、「スクナヒコ」と同じ意味に使われた名前とすると辻褄があうという。スクネは神功皇后を操ってまで熊襲金氏から新羅の王座を奪還すべきその手を片時もゆるめなかった一方で、列島では熊信仰族による第二期大和王朝が始まった。その後、蘇我の本家は645年のクーデターによって滅びるもその分家の勢力は強く残存し、663年の「白村江の戦い」に倭国は引き込まれていく。まもなく列島の「倭」は存在しなくなり、670年「日本」の国号が初めて使われたと『唐書』などに記されている。最後に、大国主命が祀られた『出雲大社』の参拝方法は、『ニ礼四拍手一礼』と一般的な『二礼二拍手一礼』と異なる。また、旧暦の10月を『神無月』というが、全国にいる八百万の神が集まる出雲では『神在月』と呼ぶこの伝承は、オオクニヌシが偉大な存在であったことを物語る。
さて、その大国主神にちなんだリング、慈愛(JIAI)が株式会社クロスフォーからでた。
0 件のコメント:
コメントを投稿