山梨と宝石「日本の神々『天照大神と八咫鏡(やたのかがみ)4』」31
玉(やさかにのまがたま)、草薙の剱(くさなぎのつるぎ)がある。『記・紀』の伝承によると、現在でも伊勢神宮に祀られている御神体である八咫鏡は、アマテラスを天の岩戸隠れからだすために八百万の神が天安河辺(あまのやすのかわら)に集まって協議し、タカミムスビノカミ(日本神話根元神)の子オモイカネノカミ(思兼神)の発案によって、八尺瓊勾玉とともに飾り立てられた。その後、アマテラスは孫のニニギノミコトに八咫鏡を与え「この鏡を見ること、われを見るごとく斎きまつれ」と命じたとされる。一方で、熊襲の反乱鎮圧のとき築紫に出陣した神功皇后と仲哀天皇を出迎えた豪族の熊鰐(くまわに)や五十迹手(いとで)らは船に立てた木の枝にこの三種の宝を掲げて献上し誠意を表したことが記されている。
中国で物象をうつす器物として「鏡」という文字が用いられたのは、紀元前3世紀ごろの周時代の末期といわれる。今まで発掘されたほとんどが円い鏡で、背面の外側の周囲に幾何学的文様をほどこし内側に龍虎や鳥獣を浮き彫りにして鋳られ青銅面は磨かれていた。日本(北九州)に最初に伝わった鏡は前漢時代の直径15センチぐらいの大きさだが、『魏志倭人伝』によると邪馬台国の女王卑弥呼は魏王から「汝の好物」として銅鏡百枚を賜与されたと記されていて、弥生遺跡や古墳の出土品から数多く見つかっている殆どは凸面鏡になっており単なる姿見ではない。この鏡を太陽に向けて立てるとどちらの方向からもギラギラと輝いて見えることから、鏡は権力者の所在を誇示するためのものと考えられていた。また、『古事記』の応神天皇の段には、新羅王の子、天の日矛(ヒボコ)が新羅から持ってきた宝の中に「澳津(おきつ)鏡」と「辺津(へつ)鏡」のセットがあるこれらは、「陸上鏡」と「海上鏡」であり、勾玉・剱とともに太陽の運行などを利用した方位決定のための測量機器として用いられていたと仮説をたてて実証されている多くの古代史研究家がいる。そして、太陽の異名「日輪」にたとえられる神、すなわち天照大神と結びついていく。
株式会社クロスフォーの天地開闢シリーズのペンダント八咫鏡(YATANOKAGAMI)は、太陽の光に煌めく、まさにアマテラスオオミカミの御神体のよう
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