山梨と宝石「日本の神々『出雲国の主人公 大国主命』1」34
とは、古代出雲王国はあまねく大陸文化の上陸地であり大和国にさきだつ先進国であったことを示している。その所在地は今の出雲市ではなく、島根県を代表する郷土民謡の「安来節(やすぎぶし)」が誕生した安来の周辺だったという。島根県埋蔵文化センターの資料によると、2003年の時点で弥生時代中期~古墳時代後期にかけての10,048ヶ所の遺跡が発見されている。それらの古墳の経時的な推移をみると安来→松江→出雲の変遷が確認されており、さらに四隅がヒトデのようにとびだした出雲神族とくゆうの大型墳丘墓の四隅突出型墳丘墓(しすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)が見つかっており、山陰地方東部から北陸地方南部にかけて首長のあいだに強い結びつきなど政治的勢力の同盟関係があったのではと推測されている。副葬品には銅鏡・ガラス製品・鉄剣・馬具・大量の銅剣などが見つかっている。それらのことからも最初に出雲ありきではなかったようだ。安来市だけでなく出雲市にも大型の古墳があり、弥生時代後期には出雲地方の東西に2大勢力があったと考えられ、それらは太陽を崇拝する渡来人だったといわれる。山陰地方に渡来した天津神、出雲族といわれるイザナミノミコトが鎮座する日本最古の大社造の国宝『神魂(かもす)神社』も松江市にある。
ところで、出雲国の主人公であったオオクニヌシ(大国主命)は「意宇国之主=オウクニノヌシ」である以上「意宇郡(おうぐん)=出雲国最大の郡」に祭られるべきであるのに、出雲大社は意宇国(出雲)の端に建てざるおえなかった。その背景には一般的に知られている「国譲り」が行われたとされている。実際には「記・紀」にこの文言はどこにも記述はないとのことだが神話によると、アマテラス(天照大神)は、豊葦原の中津国を孫のニニギノミコト(瓊瓊杵命)に統治させようと考え、アマノトリフネ(天鳥船)を従えたイザナギノミコトの子であるタケミカヅチ(建御雷神)に、国譲りをオオクニヌシノミコトと談判させて成功したとされる。
さて、大国主命がスサノウノ命から出された難題で拾ってきた鳴鏑の矢をモチーフにデザインしたペンダント、鳴鏑(NARIKABURA)が株式会社クロスフォーからお目見えした。
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