Jewelry sommeliere

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津延美衣(つのべみえ)NY州立大学FIT卒業。米国宝石学会鑑定有資格者(GIA-GG,AJP) 運命学・自然医学・アート・アロマテラピー・食文化などの知識を元に感動的な人生を描くプランナー・エッセイスト・キュレーター兼ジュエリーソムリエール(Jewelry sommeliere) 美時間代表。

2026年10月9日金曜日

週刊NY生活No.1054 5/16/26' 宝石伝説100縁起物と宝石「今年の干支『午(馬)とジュエリー3」20

       
      縁起物と宝石「今年の干支『午(馬)』とジュエリー3」20



 日本人は昔から馬が大好きで、福をもたらしてくれる「幸運のシンボル」としてきたことから「馬の縁起物」が生まれた。その代表的な一つが、江戸時代(17世紀~19世紀)に誕生した、馬という漢字を横方向に反転させた「左馬(ひだりうま)」というモチーフだ。「うま」という言葉をひっくり返すと「まう(舞う)」になり、おめでたさを連想させる縁起で、なかでも将棋の駒に反転した「馬」の字を書いた「飾り駒」が代表的な左馬として有名になり次のような幸運を招くといわれている。商売繁盛(人が馬を引くが逆転し、馬が人を引いてくる=招き入れる)、万事が順調にいく(馬は左側から乗ると安全といわれる)、お金が貯まる(馬という漢字の下部分が巾着型の財布に見える)など。それに加えて、9頭の馬が駆ける絵柄を「馬九行久(うまくいく)」と表現したユニークな縁起物もある。これらは、勝負運・金運・出世運・家庭運・愛情運・健康運・商売繁盛・豊漁豊作・受験合格などで、語呂合わせや言葉遊びを得意とする日本人の文化を象徴するモチーフとなっている。

 ところで日本に限ったことではなく馬があらゆる国々にてラッキーアイティムとなったのは、人々の生活に寄り添い多大な影響を与えてきた人類のパートナーであり、暮らしに密接に関わる縁起の良いものとして古くから大切にされてきたからだ。それら具体的に馬は、農耕・戦争・輸送など人々を支え活躍し、最後には骨や革など道具や衣類として利用され、モンゴルなど遊牧民の文化圏でも、馬は広い草原を横断する移動手段・食用・軍事用など生活には不可欠で、民族の象徴としても重要な存在となった。16世紀、アメリカ大陸に馬がもち込まれた際、ネイティブ・アメリカンの暮らしぶりは一変したという逸話もある。さらには、東南アジアで古くから民間薬として重宝されている、馬のたてがみや腹の脂肪などを火にかけ煮立たせ、不純物をろ過してつくられる「馬油」(ばーゆ)は、5~6世紀頃に、陶弘景(とうこうけい)「中国の南北朝時代(梁)に活躍した、道士、医師、学問の神様としても知られる博学多才な人物」が書いた「名医別録」という本に馬油の利用法を記している。日本にも約400年前に伝わり、昔から火傷や切り傷など様々な皮膚症状に万能油として現在でも重宝されている。

週刊NY生活No.1050 4/18/26' 宝石伝説99縁起物と宝石「今年の干支『午(馬)とジュエリー2」19

       
      縁起物と宝石「今年の干支『午(馬)』とジュエリー2」19


 今年の干支は丙午だが、日本における馬との歴史は古く古墳時代にさかのぼる。4世紀後半ごろから散発的な馬の伝来があり、5世紀に入るとモンゴルの在来馬が本格的に朝鮮半島から九州を経由して伝わったと考えられている。その馬の伝来や生産に関する記述は『日本書紀』に散見され、応神天皇15年条に、百済王が阿直岐(あちき)を遣わして良馬2頭を献じたという記載があり、馬の伝来を記した初めてのものとなる。そして各地の古墳から馬骨や馬具、飾り馬を模した埴輪なども出土しているが、古墳時代の馬具には大きく分けて2種類ある。一つは金・銀で飾られた「装飾馬具」で、「鏡板(かがみいた)」や「杏葉(ぎょうよう)」と呼ばれる飾り板をもち、前方後円墳など位の高さを示す古墳から多く出土している。当時このような飾り立てた馬に乗ることは権力者の象徴だった。もう一つはおもに鉄や木でつくられ飾り板なども付いてない質素で実用的な馬具で実際に戦いに用いられたとのこと。その後、古墳時代の終わりごろには朝鮮半島からもたらされた馬文化とともに、馬は日本各地で繁殖・飼育されるようになり広がっていった。そして移動や運搬など交通手段としての役割だけでなく、農耕を手助けしてくれたりと生活には欠かせない存在となっていく。戦国時代には戦いで敵地に赴くときの手段、また相棒として人と馬の関係は深まり勝利などの願いを込めてより良い馬具と装飾にこだわったという。さらに、日本において馬は神様の使い、乗り物として、神社に奉納する習慣が奈良時代から始まる。 神が馬に乗って現れるという信仰に基づき、祈願時(特に雨乞い・晴れ乞い)に生きた「神馬(しんめ)」を奉納していた。そして現在でも神事などで引き継がれている。一方、貴重で高価である生きた馬は世話も大変だったため、一般の人々が奉納することはとうてい不可能だった。その代わりに馬の絵を木の板に描いて奉納したのが「絵馬」の始まりとなる。その最古の事例 で奈良時代の『続日本紀』などに記述があり、奈良県の遺跡からは天平時代(8世紀)の木製絵馬が出土している。

さて、現代の私たちは、神社へ行ってその年の干支が描かれた絵馬の裏に個人の願いごとを書き奉納し、縁起担ぎのために干支のストラップやアクセサリーを身に付けたりするのだ。


週刊NY生活No.1046 3/21/26' 宝石伝説98縁起物と宝石「今年の干支『午(馬)』とジュエリー1」18

      
      縁起物と宝石「今年の干支『午(馬)』とジュエリー 1」18


 2026年の新年が始まったのは、旧暦(太陰太陽暦)によると例年1月21日~2月20日の間の新月の日が旧暦の1月1日に当たることから2月17日(火)となる。そして月の満ち欠けを基準とするため毎年のように日付は変わる。これをもとに、中国・台湾・韓国・シンガポール・マレーシア・ベトナムなど、アジア各国を中心に正月のお祝いをしており、日本も明治時代以前は同様だったが、現在では中華街や沖縄の一部地域、いくつかの神社・仏閣にて継承されている。近年よく耳にする春節とは旧正月の別名。今年の干支は「丙午(ひのえうま)」だが、その「十干十二支(じっかんじゅうにし)」とは、紀元前13世紀ころの中国の殷(いん)王朝で使われていた甲骨文字にみえる「十干」と「十二支」を組み合わせた干支(計60通りの暦のシステム)のことで、年・月・日・方位・時刻を表す暦や占いに使われ、60年で一巡(還暦)する思想だ。そして1日の区切りは24時間ではなく、日本でも江戸時代までは1日を12の刻(こく)に分けて生活していた。7番目の干支にあたる「午」は「午の刻」と呼ばれ、午前11時ごろ~午後1時ごろを指すことから、そのちょうど真ん中のお昼(12時)を正午と呼ぶ。ちなみに丙午は、十干の「丙」と「午」どちらも火の性質を持ちその力が増長される年とされ、江戸時代1666年生まれの八百屋お七の逸話(この干支に生まれた女性は気性が荒く、夫の寿命を縮めるといった迷信)が広まり風説となり、実に360年もの間、60年に一度巡ってくるこの年は女性の人生に深刻な影響を及ぼし、産み控えがあり出生数が大幅に減少したという。ところで、十二支に使われている漢字は一般の人々に馴染みのないものだったことから、身近にいて知られた視覚的に分かりやすい動物の漢字を当てはめ、十二支本来の漢字は、時間や方位、記号の役割として残された。それゆえに「午」には、太陽が最も高く昇る「正午」南の方角(午=火のイメージ)でエネルギーに満ちあふれ力強さを体現する存在である古くから人や物を遠くへ運ぶ「馬」が選ばれた。

 さて、「馬」は縁起物として国内でも「物事がうまく(馬)くいく」という語呂合わせや、力強く前進する姿から、成長、成功、運気を象徴するとされ、ジュエリーとして身に付けると幸運を呼び込み、新しい年へと力強く駆け抜けるような姿の馬はさらに良いといわれる。


週刊NY生活No.1042 2/21/26' 宝石伝説97縁起物と宝石「太陰太陽暦とムーンストーン」17

        
        縁起物と宝石「太陰太陽暦とムーンストーン」17


 現在、日にちを見るのに西暦いわば新暦(グレゴリオ暦・太陽暦)を使っているが、明治初期までは旧暦(太陰太陽暦)を使っていた。「太陽暦」とは『太陽』の周りを地球が一周することで換算されるが、端数がでるのでそれを調整するための4年に一度1日を追加する閏年(うるうどし)を設けた。紀元前の古代から使われてきた「太陰暦」は『月』の満ち欠けで日にちを換算したもの。月は様々な生き物に影響を与え満月に産卵する生き物も多く、潮の満ち引きも大きく関係している。また満月の前に種まきをすると根付きが良いとされ、盛んだった農業や漁業において新月や満月を見ることはとても重要だった。月はおおよそ15日間かけて満ち、同日間かけて欠けていき、月が全く見えない「新月」から次の「新月」の前日までを1ヶ月とみなし月の形に合わせて呼び名をつけ日にちを数えていた。古代の人々は夜空の月を見ることで日にちの間隔をもっていたのだ。ところが、月の周期で数える「太陰暦」の1年は約354日になり、3年経つと33日(約1カ月)も短くなってしまうので3年に一度、1年を13カ月とする閏月を設け「太陰太陽暦」とした。この歴は、生物に密接な『月』の満ち欠けと、季節に関係した『太陽』の両方を考慮した素晴らしい暦であり1300年以上もの長い間日本で使われてきたが、明治5年12月2日をもって終了となり、翌日から太陽暦の1873年1月1日となったので大晦日も無くなり、いきなり年が明け当時は大混乱になったという。欧米化・近代化に合わせて、明治政府により突然、改暦されてしまったのだ。その頃、暦の扱いは領歴商社に特権があり伊勢神宮庁のみがカレンダーを発行したので、お伊勢参りのお土産にはカレンダーをお目当てに日本全国からたくさんの参拝者が訪れたという。ちなみに、日本においてお正月は新暦で祝うのが一般的だが、神社やお寺では旧暦を重んじ祭事を執り行なうところが今でも多い。

 さて、月の光が封印され神秘的なパワーをもつと信じられてきたムーンストーンは、直感力を高めてくれ幸運と健康をもたらすお守りとして古くから愛されてきた。日本語で月長石と呼ばれる宝石で、フェルドスパー(長石)に見られる光の散乱や屈折が特徴で、光が浮かび上がるような様子が月の光をイメージさせることからムーンストーン(月の石)と名付けられた。


週刊NY生活No.1038 1/24/26' 宝石伝説96縁起物と宝石「江ノ島の弁財天と海の真珠」16

         
         縁起物と宝石「江ノ島の弁財天と海の真珠」16


 国内に弁財天が祀られている著名な場所は、厳島、江ノ島、竹生島、金華山、富士山、天川の6カ所だ。そのうち東京からほど近い藤沢市に位置する周囲が切り立った崖で洞窟をもつ江ノ島は、諸説あるが『江島縁起』によると、欽明天皇の飛鳥時代(552年)突如、海上に雲が立ち込め天地が激しく揺れ動いた後、無熱地龍王=仏教における八大龍王の一尊の阿那婆達多龍王(あなばだったりゅうおう)の娘である天女(弁財天)が舞い降りるとともに出現したとされる。そして洪水を起こすなど悪行を重ねてきた五頭龍(龍口山と化して人々を災害から守る五頭龍大神となる)が改心して天女と夫婦になったという伝説に由来する。江島神社の起源は、欽明天皇の勅命で島の洞窟(岩屋)に神様を祀ったことが始まりで、弘法大師空海も参拝したとされる。やがて神仏習合であった「金亀山与願寺」として栄え、鎌倉時代に源頼朝が戦いの神としてハ臂弁財天を勧請し、多くの武士たちが訪れた。江戸時代、泰平の世となると、芸能・音楽・知恵また福徳財宝の神としての琵琶をもつ妙音弁財天が信仰されるようになり、徳川家康をはじめ多くの庶民が参拝するほどの信仰を集めた。その後、明治維新の神仏分離令により与願寺の施設は破壊・廃止され、僧侶は神職となり江島神社として存続するようになった。江島神社の三宮と祭神は、近津宮:田寸津(たぎつ)比売命、中津宮:市寸島(いちきしま)比売命と、岩屋に続く本宮の役割を担う奥津宮:多岐津(たぎり)比売命など宗像三女神だ。ちなみに、双方の弁財天は辺津宮にある奉安殿に安置されている。

 さて、江ノ島の弁財天と縁のある真珠は立地からいえば海で育つ真珠となる。それらアコヤ真珠や南洋真珠には中心に核があり(養殖の場合は人工的にビーズを埋め込む)それを痛みに感じる貝は、それを覆うようにだす分泌物が真珠層となり美しく丸っこい真珠が誕生する。アコヤ真珠の大きさは一般的に6~8mmで透明感のある強い光沢が美しいが、核の大きさに対してその層はとても薄いため、傷・衝撃・汗などに弱く経年変化も伴う。一方、南洋真珠は母貝が大きいため8~15mmと割と大粒なものが多く、真珠層も数ミリと厚く形成されるためアコヤよりは丈夫で長持ちする傾向にあり、柔らかな光沢と深みのある上品な輝きを放つ。