山梨と宝石「日本の神々『クシナダヒメ(櫛名田比売)』2」48
オロチ族の住んでいた高句麗の地は中国に隣接してたので、紀元前の早い時期からそれらの文化を吸収して先進国だったといわれるその反面、中国で長く続いた「春秋戦国時代」の戦乱の被害者でもあった。そのような事態から逃れようとする人々は否応なしに、そのころ敵地であった陸続きの新羅や百済に流入する一方、命がけで冒険の道を選んだ多くの人々がいたようだ。そして海の彼方に希望を託し、海流と北西風の力をかりてたどり着いたところが能登半島を中心とする日本海沿岸の地域であったと『記・紀』や『続日本記』の記録から推測できるとのこと。「オロ→ノロ→ノト」と行音の変化により「能登」と表記されたらしい。またオロチ族が住み始めた「鳥取」という地名も「オロリ→ロロリ→トトリ→トットリ」に変化した結果だという。彼らは福井県から鳥取県中部にいたる地域に、数多くの弥生遺跡や前期古墳(方墳、四隅古墳)を残し、北方系の麦・粟・稗などの農耕技術をもたらした。ところが、すでに出雲周辺には韓国南部の伽耶の地から渡来(天下った)していた人たちが住んでいて稲作にたけていた。ちなみに、出雲国のほうが後日の大和国よりも、はるかに進んでいる文明の地だったと思わせる「出雲は大和根(ね)の国」と『記・紀』に記録がある。オロチ族は鉄剣をふるって、粟や稗ではとうてい及ばないそれらの美味い米を手に入れながら侵略して、都を島根県の東部「安来」に定めて長い間君臨するも、乱暴な振る舞いで住人を苦しめていたことから「ヤマタノオロチ退治」に発展していく。そのことは『記・紀』によると、スサノオノミコトが息子のイソタケル(五十猛)またの名をオオヤビコノミコト(大屋毘古命)とともに「高天が原」から天下る(追放された)場面から始まる。まずは、韓国の新羅に位置する曽尸茂梨(そしもり)「=牛頭のことで、京都の八坂神社の祭神・牛頭天皇=スサノウを指す」に行ったことが実際に記されており、そののちに出雲の地へやって来た。そしてアシナヅチ(足名椎命)、テナヅチ(手名椎命)の夫婦と出会い心情を受け入れ、1人残された娘のクシナダヒメ(櫛名田比売)との結婚を条件にヤマタ(大勢)のオロチ(高句麗の地)族退治を申しでた。
さて、クロスフォー(株)から櫛名田比売の櫛と稲穂をモチーフにペンダント豊穣(HOUJOU)小サイズがでた。
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