山梨と宝石「日本の神々『天照大神2』とジュエリー29
う)」という(現在は伊勢神宮と岩清水八幡宮)が、奈良・平安時代、宇佐神宮は伊勢神宮以上に重要視されていた宗廟といわれ、聖武天皇の時代に奈良の大仏鋳造のさいや、皇位継承のときなどは宇佐神宮の託宣でものごとを決めていた。その宇佐神宮の神殿の配列は、正面から向かって左より八幡神の応神天皇(神功皇后が「三韓」にでむいて九州に戻ってから産んだ皇子)を祀る一の御殿。中央(上座)は比売神(ひめかみ)の宗像三女神を祀る二の御殿。右は神功皇后=オキナガ・タラシヒメ(『日本書紀』垂仁記によると、帰化した新羅国王の子ヒボコの六代目の孫の子ども)を祀る三の御殿となっている。ヒボコは金属精錬技術集団を率いて渡来してきたとされ、銅や鉄を精錬する技術は農具や武器を製造できる力であり、政治的・経済的にそれらを持たない人々を支配下におく能力を意味したとされる。日本で神社が造られて祭祀が行われるようになると、神の命令を聞いたり祈りを捧げるためのなかつぎ役シャーマン(巫女)が必要になるが、『日本書紀』の記述によると、九州で熊襲(九州南部に居住した部族)がヤマト王権に背きその征伐のときに神功皇后が神がかりの状態になって託宣を下したとある。そのようなことから神功皇后が卑弥呼で、九州宇佐を出発地として発足した邪馬台国が東征して大和政権になったという説がある。さらにそれを裏付けるひとつに、卑弥呼の宗女であった壱与(いよ)が日本最古の輸出品とされる5千個の真珠を中国に献上したことが『魏志倭人伝』に記されている。当時、日本のアコヤガイの生息地は暖かい南九州のような海の底に限られ、さらに天然のアコヤ真珠は1万個からひとつかふたつしか採れず、素潜りのできる海人が大勢必要でなおかつそれらを統括できる巨大な権力が九州に存在していたとわかる。
さらに多くの研究者によると、『倭人伝』の記述にある卑弥呼と『記紀』に記されている天照大神に多くの類似点がみうけられ時代がピタリと重なることから、卑弥呼=天照大神の説が浮かび上がっている。
さて、株式会社クロスフォーから、天照大神のご神体ともいわれる三種の神器の一つ「八咫鏡」をモチーフにした太陽の光に煌めくようなデザインのリングがでた。
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