Jewelry sommeliere

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NY州立大学FIT卒業。 米国宝石学会鑑定・鑑別有資格(GIA-GG,AJP)。 CMモデル、イベント通訳コンパニオン、イラストレーターなどを経て、両親の仕事を手伝い十数カ国訪問。現在「美時間」代表。今迄培ってきた運命学、自然医学、アロマテラピー、食文化、宝石学などの知識を生かし、健康で楽しく感動的な人生を描くプランナー、キュレーター、エッセイスト、ジュエリーソムリエール(Jewelry sommeliere)

2020年9月7日月曜日

週刊NY生活No.785 8/22/20'宝石伝説31山梨と宝石「宝石加工地の歴史」4

      山梨と宝石「宝石加工地の歴史」4

 江戸時代、甲州御岳山一帯から産出された豊富な水晶をもって誕生した山梨のジュエリー産業は、「水晶工芸=水晶研磨」と「貴金属工芸=錺(かざり)職」(江戸時代の後期、錺屋金五郎により京都で創業。鋳造・鍛造・彫金・象嵌・七宝などの金属を細工する職)の2つの流れで発展したが、のちに市場性の高い製品づくりを目指すため1つになる。大正に入ると、水晶の研磨加工は機械化・電化により手磨りから円盤磨きへと変わる。そのころ(地元産の枯渇)ブラジル産水晶の大量輸入により同一規格品の量産も可能になった。やがて、国内の販路拡張、米国への輸出、中国大陸への出張販売などにより基盤が形成され、研磨宝飾品の産地「水晶の山梨」として全国に知らしめた。
 昭和に入り戦争がはじまると研磨宝飾業者は、水晶発振子、光学レンズ、絶縁体などの軍需研磨品の生産体制へと組みこまれ「奢侈品など製造販売制限規制」も発令。さらに悪いことに、空襲(甲府市の80%が壊滅的被害)による大きな打撃が重なり、転廃業など余儀なくされた。戦後その復活に寄与したのは皮肉にも進駐軍の兵士たちで、ジュエリーや水晶細工などをみやげ品として大量購入して行った。
 戦争の抑圧は反動となり、研磨宝飾品の需要は増大し、国内向けの本格的な生産が再開される。昭和30年代には、真鍮、模造金、銀と、半貴石、合成石、ガラスを合わせた装飾品を中心に、室内装飾品、工業用品などが量産される。やがて高度成長期をむかえ、国民の生活が安定すると、宝飾品などの高級・多様化を求める人々のニーズに合わせて、金やプラチナの台にダイヤモンドや貴石などの色石を嵌める加工をはじめた。また、昭和48年の金地金・金製品の輸入の自由化により、海外の優れた金製品のデザインや加工技術からも大きな影響をうける。
 一方で、研磨宝飾産業のさらなる発展と人材育成を目指して、昭和56年「山梨県立宝石美術専門学校」が開校し、産業を支える新しい世代が生まれ多くの卒業生が県内外の宝飾業界で活躍するようになる。昭和61年頃からバブル経済期に入ると、ジュエリーは花形商品となり山梨の宝飾業界も最盛期をむかえるが、バブルが弾けると一転して市場は再び縮小し低迷期に入っていく。

週刊NY生活No.780 7/18/20`宝石伝説30山梨と宝石「世界第1.2の宝石研磨・加工地」3

   山梨と宝石「世界第1.2位の宝石研磨・加工地」3
 
 各国から山梨県甲府に宝石関係の業者が訪れるのは、日本の職人のもつ生真面目・心意気・手先の器用さなどによる。美しいジュエリー制作を心がけて見えないところまで注意を払い、最後の工程である石留めに至るまで一瞬たりとも手を抜かず宝石を仕上げていく職人技は海外からも注目されているのだ。彼らがジュエリーの制作技術などを争う技能五輪全国大会でメダルを獲得するのも納得できる。さらに山梨は金属の鑑定機関も有しており、厳しい品質を追求した上での金やプラチナを使用した宝飾品のみならず、宝石で工芸品も制作している。そして世界一の「宝石研磨・加工地」ドイツ西部にあるイーダー・オーバシュタインに次ぐメッカとなった。
 世界一の場所は経済の中心地フランクフルトから車で約2時間程度に位置する。小さな宝石の街だがその歴史は古く、豊富に産出されたメノウ細工は地域の特産品で、16世紀には最初の宝石研磨工房が作られていた。17世紀~18世紀のヨーロッパは絶対主義のもとで、当時は宮廷を中心とする文化が栄えていた。その頃から貴族の間で流行していたカメオ細工を含む宝石彫刻は特に有名だった。ドイツ人の生来勤勉頑固な気質をもち、几帳面で正確無比の素晴らしいカットをするその高度な技術は、現在に至るもここの彫刻職人しか受け継いでいないといわれ、現在も10名ほどの彫刻家が活躍しているという。19世紀の後半には約150カ所の工房を超える宝石の街に発展していくがやがて、地元で採れたメノウの枯渇もあいまってそれだけでは商業的需要を満たせなくなった。そこで長い年月で培われた技術を生かし、世界中の宝石鉱物を輸入して研磨することに活路を開いた。今もなお宝石加工の中心地で、鉱物博物館もかまえる観光名所になっている。
 ちなみに、メノウは水晶と同じ石英ファミリー(同じ結晶系)に族し、カルセドニー(玉髄)と呼ばれる。水晶の形態が柱状に対して、メノウは潜晶質(肉眼では分からない非常に小さい結晶の集まり)。昨今、門外不出のレシピによる手彫りの最高級カメオは、主流であるブラジル産の複数層ある縞状メノウのわずか1~3%程度しか取れない部分によるもので貴重な宝石となる。

2020年7月8日水曜日

週刊NY生活No.776.6/20/20'宝石伝説29山梨と宝石「宝石の街」2

       山梨と宝石「宝石の街」2
 
 国石とは、その国家を代表・象徴する石(宝石)のことを言う。それを定める条件として「国産の美しい石で、生活に関わり利用されてきた」などがある。2016年9月、日本鉱物科学会は、1913年に米国の鉱物学者J・F・Kunzが著した本で、日本の国石を「水晶」と記したのを、「ひすい」に選定しなおした。その理由は、縄文時代の遺跡(新潟県糸魚川市)にて、ひすいがたたき石として使用されていたことや、人類初の国内ひすい加工の証しである大珠の発見による。
 僅差で準国石となった水晶の代表的な産地に山梨県がある。今から遡ること平安時代の中期、山梨県北部に位置する 御岳昇仙峡の奥地、金峰山周辺から水晶の原石が発見された以降、「宝石の街」山梨の歴史は始まった。同県の水晶がその名を誇ってきたのは豊富な産出量のみならずその素晴らしい形状で、なかでも無色透明で大型の単結晶は類いまれな美しさだった。水晶とは、花崗岩の主要構成鉱物の一つである石英のなかでも透明~亜透明の石をさす。英名である「ロッククリスタル」は、中世後期に無色透明なガラスを作る技術が生まれ、それと区別するためにつけられた名称。水晶は、柱状の形態で地球上で最も多い元素の酸素とケイ素から成り、4面体すべての頂点と隣接する4面体とが共有し三次元的に連なる結晶構造を持つ。
 甲府は、江戸時代に入ると京都から職人を招き水晶を鐡板上で金剛砂を使って研磨し、本格的な飾り技術まで発展していく。明治時代には水晶宝飾の全盛期をむかえたが、やがて地産原石は枯渇しいったんは廃業を余儀なくされる業者が現れる。それゆえ原石を海外から輸入することになったが、長い歳月を経て培われた高度の研磨加工技術はさらに磨きをかけ、現在に至るまで継承されている。1980年後半~1990年代初頭、バブル景気とともに国内の宝石の需要は高まっていく。それに従うように、宝石のカットや加工技術も卓越した宝石大国のインド(18世紀までダイヤモンドの主要産地)から宝石商が甲府にこぞって訪れた。その後、日本の宝石マーケット市場の縮小に応じて、商売を国内から世界を相手にするシフトに切り替え、今なお国内外の1000社を超える業者が甲府に集結し、卓越したジュエリーを海外に発信している。

週刊NY生活No.772 5/16/20`宝石伝説28山梨と宝石「宝石庭園 信玄の里」1

     山梨と宝石「宝石庭園 信玄の里」1

 室町後期の戦国時代、甲斐源氏の武田信玄は、織田信長さえもうかつに手だしができない戦国最強の武将で「甲斐の虎」と呼ばれその名を轟かせた。多くの戦国武将たちは、武田軍の「風林火山」と書かれた四文字の軍旗を見ただけで震え上がった。信玄は戦いの際には常に水晶の「大念珠」を戦勝祈願のお守りとして身に付けていた。甲府市の天目山栖雲寺(てんもくさんせいうんじ)には、信玄が奉納した軍配が伝わっており、その中央にも丸い水晶がはめこまれている。古くから水晶にはあらゆるパワーがあるとされ、お守りとして用いられていた。山梨県の水晶の歴史は古く、甲府市の黒平遺跡群では約2万年前の旧石器時代に水晶の石器が使用されていたことが判明し、塩山市の乙木田遺跡では、縄文時代の水晶を加工した作業場の跡が発見されている。
 同県、笛吹市石和に日本で唯一の「宝石庭園 信玄の里」がある。威風堂々とした信玄像に迎えられ、洞窟を抜けると目の前に桃源郷のような約1000坪に及ぶ和と洋がおりなす優美な日本庭園が広がる。庭一面に敷きつめられたアメジスト、ローズクオーツ、タイガーアイなどの宝石(半貴石)は光り輝き、いまなお息づく庭園内の大木化石は、春は桜の花が咲き乱れ、夏は木の葉が青々とみなぎり、秋は紅葉が色づき、冬は白銀の世界などの四季折々の風情とみごとに調和している。また滝が豊かに流れ落ちる池には、まるで悠久の時を超えて泳ぐ宝石のような、なかには体長が最大1m強にもおよぶ艶やかな色合いの錦鯉が群れをなしている。
 ところで、宝石の世界的な定義とは、希少性が高くて美しい外観を持ち、モース硬度(宝石の美観をたやすく失う原因となる経年劣化(風化)を招く砂ぼこりの中に多く含まれる石英の硬さ(7)を基準値として)が7よりも高い天然鉱物のことで、貴石とも呼ばれる(それ以外は半貴石)。かたや、硬度が7以下のヒスイやオパールも貴石と呼ばれることがあるのは、定義のなかで外観の美しさが最も大切(身に付ける際の耐久性・摩耗性があること)な要素となるからだ。それに対して、宝石庭園を構成する水晶など硬度は7あり美しいが、豊富に採れるので半貴石の宝石となる。

2020年6月8日月曜日

週刊NY生活No.768 4/18/20'宝石伝説27カルティエ「パンテールのブローチ」5

                    カルティエ「パンテール(豹)」5

 映画「オーシャンズ」シリーズのなかで、初めて女性たちが活躍する『オーシャンズ8』は、カルティエ至宝のダイヤモンドネックレス「トゥーサン」が要となる。この宝石は架空のものだが、「トゥーサン」とは1933年から1970年にかけて現代ジュエリーに革命をもたらし、カルティエを支えてきた女性デザイナー、ジャンヌ・トゥーサンのことだ。1877年にベルギー・ブリュッセルのレース職人の娘として生まれた彼女は16歳のとき恋人とパリで同棲するも、やがて1人になり生活費を稼ぐためにバック作りをはじめる。そしてカルティエの創業者の孫、ルイ・カルティエにその才能を見出されメゾンで働きだし、彼からジュエリーの知識を学ぶとともにやがて右腕として大切な存在となる。1933年、彼女は、心臓病を患ったルイからハイジュエリー部門の最高責任者に抜擢され、その生涯をカルティエに捧げた。遂には、彼女のニックネームとなる、あふれる大胆さと野性的でありながらしなやかで美しい「パンテール(豹)」を生み出し、それをモチーフにさまざまなジュエリーや時計「パンテール ドゥ カルティエ」を制作していく。彼女は伝統あるジュエリーメゾンのクリエーションを最初に主導したのだ。代表作の一つに、カボションカットされたカシミール産サファイア(152.35カラット)にまたがる立体的なプラチナの豹のクリップブローチがある。当時、ウインザー公爵夫人がこれを身に付けたことで、1950年代は宝石サファイアが再流行したといわれる。
  ルイ・カルティエの弟ピエールが参画してから、カルティエブランドはますます飛躍をみせ、1907年にはロシア皇帝、翌年にはシャム国王の御用達となった。1909年、ピエールは、ロンドン支店を同区のニュー・ボンド・ストリート175-176番地に移転。さらに、アメリカ初上陸を遂げる。ニューヨーク5番街712番地に支店を開いた8年後、5番街653番地にあったモートン・F・プラントの邸宅を最高級真珠の2連ネックレスと交換しそこに移転して現在に至る。
 毎年暮れになると、トレードカラーの赤いイルミネーションの大きなリボンで結ばれたブティックに、人々は目が釘付けになる。一瞬クリスマスプレゼントを貰った気分に浸るのだ。

週刊NY生活No.764 3/21/20'宝石伝説26カルティエ「フラミンゴのブローチ」4

            カルティエ「フラミンゴのブローチ」4
 

 1921年、カルティエは英国のエドワード8世の御用達となる。1934年頃、エドワードが心を寄せていたのは、離婚歴のあるアメリカ社交界の花形ウオリス・シンプソンという女性だった。そのことが、英国王ジョージ5世の崩御(1936年)によって大問題を生じさせる。王位を継承するものは同時に英国国教会(離婚した人間の再婚を認めない)の首長となるのだ。したがって苦渋の決断を迫られたエドワードは彼女を選び英国王位を退き、新国王となった弟ジョージ6世から「ウインザー公爵」の称号を与えられた。エドワードは彼女に数多くの宝石を贈っている。なかでも有名なジュエリーはフラミンゴのブローチ。彼女は所有していたネックレス1点とブレスレット4点を材料として、パリのカルティエのデザイン責任者だったジャンヌ・トゥーサンに提供した。トゥーサンは共同デザイナーのピーター・ルマルシャンとともに、それらの宝石を使い、1940年にプラチナとイエローゴールドの石座にビーズカットされたダイヤモンドをパヴェ(フランス語の「石畳」意味し、ダイヤモンドを隙間なく敷き詰めた石留め方法)セットし、フラミンゴのきらめく体を生み出した。羽と尾にはステップカットされたルビー、エメラルド、サファイアをあしらい、目にはカボションカット(ファセットをつけない円形に研磨した)のサファイア、くちばしはカボションカットのシトリンとサファイヤで表した。やがて絶妙なバランスを保ちながら一本足で立つフラミンゴのブローチを完成させた。エドワードはウインザー公爵夫人となった妻の誕生日祝いにこのブローチを贈り、同時にこの宝石は彼女にとって豊富に所有するジュエリーのなかでも貴重なものになった。1986年彼女が亡くなった翌年、このブローチはサザビーズのオークションにかけられた。その時のサザビーズの責任者デイビッド・ベネットは「フラミンゴのブローチはすぐさま売り上げの鍵となる宝石になりました」と語っている。2019年10月、東京の新国立美術館で開催された「カルティエ、時の結晶」展にて、このブローチ(大きさは10㎝程度)を鑑賞した。まるで水面に揺れながらその体は眩いかぎりに耀き、鮮やかな赤、青、緑色の躍動感ある羽を広げて凛として佇む、華やで気品が漂うフラミンゴに魅了された。

週刊NY生活No.7602/15/20宝石伝説25カルティエ「世界初の男性用腕時計」3

               カルティエ「世界初の男性用腕時計」3

 1902年、ルイ・カルティエはロンドンのニュー・バーリントン通り4番地に支店をオープンし、弟のピエール・C・カルティエに経営を任せる。1904年以降、ルイ・カルティエは祖父(ルイ=フランソワ・カルティエ)より譲り受けたジュエリーへの審美眼や経営のノウハウを武器に、イギリス、スペイン、ポルトガル、ロシアなどさまざまな王室御用達を実現していく。1895年には、宝石を爪留手法で一つだけはめたソリテールリングを発表した以降、プラチナとダイヤモンドによるソリテールはエンゲージリングとして世の女性たちの定番となったが、彼が持つ天性の才能はジュエリーはもとより、礎となる時計にも現れた。宝石工房として出発したカルティエの大きな功績は、世界初の男性向け腕時計を製造したことにある。当時、時刻を確かめるのにポケットから出し入れする懐中時計が主流だったが、彼の友人で飛行士のアルベルト・サントス・デュモンより「操縦桿から手を離さずに時間を確認したい」と腕時計製作の相談を受け、彼の名前をそのまま冠した角型レザーストラップの腕時計「サントス」を製造してプレゼントした。サントスに続き、タンク、パシャ、パンテール、ベニュワールなどの名品を生み出し、今でも定番時計として世界中の人々に親しまれている。一方、1912年以降「時計製造の奇跡」と称される、針がメカニズムに繋がっておらず、クリスタルの中に浮かんでいるような印象を与える魅惑の置時計「ミステリークロック」を世にだす。奇術師J・U・ロベール=ウーダンが考案し、メゾンの時計職人モーリス・クーエが数ヶ月に及び完成させ、カルティエの手で何度も綺麗な装飾が施された。
 2009年、スイスに時計専門の自社工房を設立して、ムーブメントの設計・製造から時計の組み立てを一貫して自社で行うマニファクチュールを開始する。自社の好みやデザインに合うような時計を製造できるが、これを実現するには高い技術力と資本力が要求される。その翌年、新たな男性用の定番となるカリブル・ドゥ・カルティエによって、完全自社製造ムーブメントを搭載した、本格機械式時計を発表する。そしてカルティエは他の老舗時計メーカーと遜色のない時計製造の歴史と技術を構築して行く。ちなみに、名門ブランド時計メーカーのロレックスが創業されたのは1905年だ。

2020年2月4日火曜日

週刊NY生活No.756 1/18/20 宝石伝説24カルティエ「トゥティ・フルッティ(すべての果物)2

  カルティエ「トゥティ・フルッティ(すべての果物)」2

 1901年、ピエール・カルティエは、インドよりドレスを3着贈られたアレクサンドラ王妃(英国王エドワード7世の妻)からそれらに合うネックレスの注文を受けた。それ以降、カルティエはインド文化との繋がりを持つ。10年後、ピエールの弟ジャックは、インド皇帝ジョージ5世の戴冠式典に出席するためインド亜大陸へ赴くが、一方で手持ちの宝石をフランス式に仕立てたいと望むマハラジャたちと接触する目的もあった。やがてインドの宝飾品は西洋社会で大評判となり、カルティエの顧客たちは同じような宝飾品を求め店の前に列をなすようになる。
 1936年、カルティエは上流階級に属するデイジー・フェローズ(フランス系アメリカ女性で莫大な財産の相続人)の依頼を受け、彼女がすでに所有していたネックレス1点とブレスレット2点に使われていた785個の宝石を再利用し、さらに238個のダイヤモンドと8個のルビーを加え、インドの宝石文化に影響を受け最も豪華な異国情緒あふれるネックレスを完成させる。翌年このネックレスをつけたデイジーの写真がヴォーグ誌に掲載されたのは、ジャズ・エイジの華やかさと豊かさを象徴する革新的な装いの先駆けだったからだ。

 当時、このネックレスのスタイルは「コリエー・ヒンドゥー(ヒンドゥーのネックレス)」として知られていたが、1970年代カルティエは、カットされたカラフルな宝石がベリー類や葉や花に似ていることを強調するために、その名称を「トゥティ・フルッティ(すべて果物)」と改めた。そのころデイジーはスキャンダラスな恋愛模様と贅沢をきわめたライフスタイルで、ゴシップ紙をにぎわせていた。ニューヨーク・タイムズはこのネックレスについて「いかがわしい記憶とともに輝く宝石」と揶揄した。かたや、純粋にファッションリーダーとして評価されていた彼女は社交界の有名人で、1951年ベネチアで開かれた壮麗な仮装舞踏会に「アフリカの女王」の仮装をほどこし、このネックレスを身に付けて出席した。ところが、「ファッションリーダーだが・・・付けすぎた宝石の重みで小柄な体がたわんでいる」と彼女に対して皮肉たっぷりな記事がデイリーメール紙上に踊った。ちなみにこのネックレスは、1990年ジュネーブでオークションにかけられ、カルティエが265万5172ドルという記録的な価格で落札した。

週刊NY生活No.753 12/14/19 宝石伝説23カルティエ「世界初のプラチナジュエリー」1

   カルティエ「世界初のプラチナ・ジュエリー」1

「Jeweller of kings, king of jewellers 」(王の宝石商、宝石商の王」と、英国王エドワード7世より称えられたカルティエ(Cartier SA)は、フランスを代表する高級宝飾の名門ブランド。1847年、創業者で宝石細工師のルイ=フランソワ・カルティエは師のアドルフ・ピカールからジュエリー工房を受け継いだあと現在のパリ2区内で何度か移転する。最初はパレ・ロワイヤルにほど近いヌーヴ・デ・プティ・シャン通り5番地に個人顧客を対象にジュエリー・ブティックを構える。この場所は社交界が度々行われていた国王の家系にあたるオルレイン公の館からほど近く、カルティエのジュエリーは上流貴族を中心に広まっていく。
 1859年、ナポレオン3世によるパリ大改革が行われ、ベル・エポックの時代に入り街も人々も美しく華やかに生まれ変わる。装飾様式では花や植物などに有機的なモチーフや過剰な曲線の組み合わせを楽しむ「アール・ヌーボー」が全盛を迎えていた。そしてイタリアン大通り9番地に移転したカルティエのブティックはパリのアイコニック的存在となる。顧客のウジェニーフランス皇后がジュエリーのオーダーをしたことをきっかけに、カルティエは王室御用達となり、その名をヨーロッパ全土へ広げていった。
 1872年、カルティエは息子のアルフレッド・カルティエを共同経営者にする。1898年、孫にあたるルイ・カルティエを共同経営者に据え、社名を「アルフレッド・カルティエ&フィス」に変更。そしてヴァンドーム広場北側のラ・ぺ通り13番地に移転。

 1900年、長年の研究により世界で初めてのガーランド・スタイル(ルイ・16世時代の主に建築に用いられていた、葉や透かし細工などに観られる装飾美術)の「プラチナ・ジュエリー」がルイ・カルティエにより制作された。精錬も加工も金よりはるかに高度な熟練を要するプラチナだが、高温の中でも酸化せず常に輝きを保ち、紙のように薄く糸のように細く延ばせる特性は、繊細で軽やかな、宝石だけを連ねたような華麗なジュエリーの製作を可能にした。特にダイヤモンドの輝きを最大限に引き出したことは大きな功績だ。プラチナの加工技術は約30年間カルティエの独断場で、英国王エドワード7世の戴冠式に装身具の下命を賜る栄誉に浴したのだ。この宝石業界におけるエポックメーキングは現在に至るも不朽の輝きを放つ。

2020年1月6日月曜日

Michelin guide Tokyo2020と炭火割烹「白坂」

  「ミシュランガイド東京2020」と「炭火割烹 白坂」

 今年で13年目を迎える「ミシュランガイド東京2020」が11月26日に発表された。東京は世界で一番星付きが多いグルメ都市で226軒に及ぶ(ビブグルマンは238件)。三つ星は13年連続の3軒(カンテサンス、かんだ、ジョエル・ロブション)を含む計11軒が評価されたが、「すきやばし次郎本店」「鮨さいとう」は現在一般予約が不可になり、三つ星のみならずミシュランガイド掲載対象外となった。二つ星は計48軒で、なかでも久々に高い評価を受けたのは唯一のイタリア料理「プリズマ」。一つ星は計167軒。
 
 そのうちの1軒、港区赤坂にある『炭火割烹 白坂(しろさか)』(2014年11月にオープンしてから一つ星は2回目)に触れたいと思う。黄昏時になると、少し奥まったところに佇む和風建築の入口に白い暖簾が掛かる。足元の灯篭を頼りにお香を聞きながら石畳を一歩づつ前に進み結界を超える。そしてとびらをガラッと開けると目の前に「静寂閑雅」と、白木のカウンターの向こう側にシェフともどもほっこりとした暖かさが融合する明るい空間が広がる。目の前で完成される料理は、火入れをはじめに絶妙なタイミングで仕上げた懐石風。ジャンルを超えていいとこ取りした旬の海や山の幸が約10品、最後のデザートに至るまで感動の嵐は止まない。

 それはオーナーシェフ井伊秀樹氏の背景にあり、特にニューヨーク滞在中の経験は大きいという。東京で日本料理を学び研鑽を積み、シドニーの有名店でシェフをつとめたその後、食の外交官ともいわれ、同時に日本の文化を伝える重要な役割を担う、ニューヨーク国連大使の専属公邸料理人を拝命する。2010年秋から2年半にわたり、次席大使と(その家族)、宗教上の規律やマナーの違いをもつ各国の要人との公的な会食に対して、メニュー決めから食材の仕入れ(日本から空輸することもあったが、人種のるつぼであるニューヨークは食材が豊富で大抵のものは事欠かなかった)、当日の調理、そして予算管理に至るまで一連の作業を1人でこなしてきたことから多くを学んだという。井伊氏は、ギッシリと予約の入ったノートを抱え、「ニューヨークにまた行きたいなぁ」と最後に呟いた。


 Michelin Guide Tokyo 2020 and Charcoal Cooking Shirasaka

  “Michelin Guide Tokyo 2020”, which is celebrating its 13th year this year, was announced on November 26.  Tokyo is the world's most starred gourmet city with 226 properties (238 Bib Gourmands).  Three stars were evaluated for a total of 11 resturants, including three for the 13th consecutive year (Quintessence, Kanda, Joel Robuchon). However, Sukiyabashi Jiro Main Store and Sushi Saito are not open for general reservation anymore because of this, disappeared from not only three stars but also Michelin Guide.  There are a total of 48 two-star restaurants and the Italian dish that has been highly evaluated after a long time is Prisma.  There are a total of 167 one-star.
 I would like to touch one of them, charcoal cooking Shirosaka at Akasaka in Minato-ku, which received one star the second time since opening in November 2014.
  At dusk, a white curtain is hung at the entrance of a Japanese-style building that stands a little behind.  Follow the stone pavement step by step while listening to incense by relying on the lantern at your feet and cross the line(Kekkai)between secular and sacred area. when you open the door, you will see a bright space in front of your eyes, where "Quietness and elegance"  and the warmth of the chef on the other side of Shiraki counter unite.The dish that is completed right in front of you is a kaiseki style that has been finished with exquisite timing, such as burning.  Approximately 10 dishes of seasonal seafood and mountain food which only choose best ingredients as like ‘skim the cream’ beyond genres . impressive storms do not stop until the last dessert.
 these things are behind owner chef Hideki Ii’s especially his great experience in New York.  After studying and studying Japanese cuisine in Tokyo and working as a chef at a famous restaurant in Sydney. And then, He is appointed an official residence cook of the United Nations Ambassador to New York, which called food diplomat and plays an important role in conveying Japanese culture.
 During the two and a half years from the fall of 2010, for the dinner with junior ambassador (their family) and key figures from different countries with different religious disciplines and manners, the menu selection, the purchase of ingredients (some are by air from Japan, but the racial crucibles New York is abundant, and most of the ingredients were there), cooking of the day, budget management, He has been working alone and learned a lot of things.

  Mr. Ii held a notebook with full of reservations, and muttered at the end “I want to go to New York again."

Michelin guide Tokyo2019

      「ミシュランガイド東京2019」

  1900年「ドライブをもっと楽しく」を掲げ、フランスのタイヤメーカー・ミシュラン社が、地図、宿泊施設、レストランなどの情報をまとめた赤表紙の冊子を出す。そして今月11月27日、12年目を迎えた東京版「ミシュランガイド東京2019」の出版記念パーティーが開催され、最高の三つ星 13軒、二つ星52軒、一つ星165軒、ビブグルマンは34種のカテゴリーの中から、254軒選ばれた。会場では、日本ミシュランタイヤ株式会社 代表取締役社長ポール・ペリオ氏の挨拶から始まり、シャンパンとマカロンが振舞われ大いに賑わった。

  3段階の星(マカロン)は、料理のみを評価しており、5段階のフォーク&スプーンで、お店の快適さを評価する。2014年からは、ビバンダム(ミシュランのマスコット)の顔で表す、安価(5000円以下)でお勧めできる店のカテゴリーがビブグルマンとして導入され、今回はおにぎり(浅草 宿六)がラーメン店に続き選ばれるなど、身近なガイドブックになった。ちなみに、東京版は世界でもいちばん星を獲得したお店が多く、和食が「食の無形文化遺産」に選ばれたことと無縁ではないと思う。

週刊NY生活No.749 11/16 宝石伝説22ティファニー「伝説的なデザイナー」4

              ティファニー「伝説的なデザイナー」4


  ティファニーは、シルバーからダイヤモンドに至るまで万人に扉を開けた有名なブランドだ。
なかでも1990年代、フリーハンドで無造作に描いたように見えて計算しつくされた、「オープン ハート ペンダント」は、シルバーをラグジュアリーなジュエリーへと高めた代表的な作品で、多くの乙女心をつかみベストセラーとなった。その絶大的な人気と時代を超えて愛され続ける永遠のアイコンを生みだしたデザイナーは、1940年イタリアのフィレンツェ生まれのエルサ・ペレッティ(Elsa Peretti)。彼女はニューヨークでモデルとして活躍していたかたわら、ジョルジョ・ディ・サンタンジェロのショーで自身がデザインしたジュエリーが使用されて一躍脚光を浴びた。1974年、ぺレッティがティファニーの専属デザイナーとして参加したその日は、ティファニーのデザイン イノベーションにおける幕開けでもあった。彼女は目にするものを彫刻的でオーガニック、そしてセンシュアルなオブジェに変えていく革新的な美的感覚をもち、世界を魅了し続けた。さらに、高価なダイヤモンドの役割をファッション界において、普段着にも合わせられるジュエリーへと変えた。彼女のジュエリーとデザインの作品は大英博物館、ボストン博物館、ヒューストン美術館の20世紀のコレクションに含まれている。

  そしてもう1人のデザイナー、産まれたときから芸術家といわれるパロマ・ピカソ(Paloma Picasso)は、今世紀最大の奇才、アーティストのパブロ・ピカソとフランソワーズ・ジローの間に誕生した(1949年)。服飾に携わっていたパロマは、1980年ティファニーに加わってから大胆でカラフルなジェムストーンに魅了されていく。自然が生み出すものには限界がないと悟った彼女は、天然石を取り入れたトレンドの先駆けとなり、個性あふれるスタイルと作品によってデザインとファッションの世界を代表する象徴的な存在となる。幼少期のお絵描きから、ティファニーを代表するジュエリーコレクションの世界へ羽ばたいたのだ。主な作品に、愛し合う二人が寄り添う「ラビング ハート」がある。彼女の作品は、色使いだけではなくデザインに込められた意味あいからお守りのように愛用されている一方で、ワシントンD.C.のスミソニアン自然史博物館、シカゴのフィールド自然史博物館などにも所蔵されている。