Jewelry sommeliere

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NY州立大学FIT卒業。 米国宝石学会鑑定・鑑別有資格(GIA-GG,AJP)。 CMモデル、イベント通訳コンパニオン、イラストレーターなどを経て、両親の仕事を手伝い十数カ国訪問。現在「美時間」代表。今迄培ってきた運命学、自然医学、アロマテラピー、食文化、宝石学などの知識を生かし、健康で楽しく感動的な人生を描くプランナー、キュレーター、エッセイスト、ジュエリーソムリエール(Jewelry sommeliere)

2019年11月6日水曜日

週刊NY生活No745 10/19宝石伝説21ティファニーの「歴史と伝説的なジュエリー」3

         ティファニーの「歴史と伝説的なジュエリー」3

  現在ではエンゲージメントリングのスタンダートスタイルになっている、ラウンドブリリアントカットのダイヤモンドをできる限り小さく仕上げられた6本爪で石留めする方法は、1886年にティファニーによって考案され「ティファニーセッティング」と名付けられた。それにより、あらゆる方向から光が入り、輝きと美しさが一段と増すと同時に、見る人の視線をセンターのダイヤモンドに集中させ際立たせることを可能にした。
  1902年、チャールズ・ルイス・ティファニーの息子であるルイス・コンフォート・ティファニー(Louis Comfort Tiffany)は、社内にアートジュエリー専門部門を創設しデザインディレクターに就任した。アートに造詣のあった彼はジュエリーだけではなく、自然や異文化からデザインを取り入れ、そして斬新なジュエリーとエナメル工芸品を発表していく。
  1926年、アメリカ合衆国の政府はティファニーが導入しているプラチナの純度基準を、国の公式な基準値として認可するほど、米国内でティファニーの影響力は高まっていく。1940年には、現在のニューヨーク5番街57丁目に移転し、エントランス上部には時計を担ぐ巨神アトラスの像が掲げられた。そして1972年、ティファニーは日本に進出を果たす。

  ところで、ティファニーには人気を支えてきた伝説的なデザイナーたちがいる。その一人、20世紀を代表するジャン・シュランバージェ(Jean Schlumberger)は1907年フランスアルザスの由緒あるテキスタイルメーカーの一家に生まれ、のちにニューヨークに移住。その後1956年ティファニーにパートナーとして正式に加わった。ウイットと好奇心に富んだ魅力的な作品で知られ、貴重なジェムストーンの独特の色彩を生かしながら自然の神秘を美しく力強いデザインに込めて創作していく。1995年には、「ティファニー イエロー ダイヤモンド」のデザインに採用された彼の代表作となる「バード オン ア ロック」が完成した。プラチナとゴールドの枠にホワイトとイエローのダイヤモンドが配されたボディとルビーの目を持つ美しい鳥をダイヤモンドにマウントしたブローチだ。実際にニューヨーク本店にてその作品を鑑賞したが、まるで異次元から幸せを運んで来た鳥が煌めきを放っているように感じた。

週刊NY生活No741 9/21宝石伝説20ティファニーの「イエローダイヤモンド」2

           ティファニー の「イエローダイヤモンド」2

  1878年ティファニーは、高品質ダイヤモンドを求めて世界中から多くの人々が押し寄せていた南アフリカのキンバリーで採掘された世界で最大級(287,42ct)のファンシー イエロー  ダイヤモンドを手にする。そしてこのダイヤはパリに送られた後、ティファニーに入社したばかりのジョージ・フレデリック・クンツ(George Frederick Kunz)(彼は後に自分の名前を冠する「クンツァイト(鉱物名 スポジュメン)色合いはピンク・スミレ色がかったパープル」という宝石の鑑別と学術的発見をし、ティファニーの主任宝石鑑定士となる)に委ねられ、あらゆる角度からの観察と研究を重ね1年間が費やされた。そして宝石のもつ美しさを引き出すために多くのファセットが施され、通常のブリリアントカット(58面)より24面多い82面(多面によるファセットは、光を更に反射させるためではなく、イエローダイヤモンドの特性を生かし、宝石の中で火が燃えているような効果を見せるためだといわれる)のクッションシェイプ(128,54ct)にカットされ、ティファニーの歴史と技術を物語る世界有数の「ティファニー ダイヤモンド」が誕生する。
  通常ダイヤモンドは殆どが黄色味がかっており、その色因は炭素以外の不純物原子の(私たちが呼吸する空気の大部分(78%)も占めている原素)窒素によるもので一般的だ。かたや、稀にその窒素原子が孤立したlb型と呼ばれ黄色味が強くなるとファンシー イエロー ダイヤモンドと呼ばれるものが産出されるが、そのうち色度・彩度・透明度の高いものは希少性が数段高くなる。
  このティファニーを代表するジュエリーは何度かそのデザインを変え、ニューヨーク本店にて展示されている。

  ちなみに、何度もデザインを変えたこの至宝が実際に着用されたのはわずか数回と言われている。1961年、映画「ティファニーで朝食を」のプロモーション撮影にて、リボン・ロゼットのネックレスにマウントされたものをオードリー・ヘップバーンが着用した。そして、今年の2月24日、カリフォルニア州ロサンゼルスで行われた第91回アカデミー賞授賞式にて、レディ・ガガは、漆黒のロングドレスに ティファニー ダイヤモンドがセッティングされたネックレスを身に付け登場した。煌めく胸元はさらに彼女の艶麗さを増幅させてレッドカーペットを飾った。

2019年9月8日日曜日

週刊NY生活No737 8/17宝石伝説19 ティファニーの「ブルーボックス」1

              ティファニーの「ブルーボックス」1

  世界五大ジュエラーのひとつティファニー(Tiffany&Co.)は、1837年フランスで エルメス(HERMES)が創業した同年代、ニューヨークにてチャールズ・ルイス・ティファニー(Charles Lewis Tiffany)とジョン・バーネット・ヤング(Johon B. Young)によりティファニー&ヤング(Tiffany & Young)の創業を始める。当初は文具や装飾品の取り扱いからスタートし、8年後には世界初となるメールオーダーカタログ「ブルー ブック(BLUE BOOK)」を発行して話題になる。
  1848年、ティファニーに大きな転機が訪れる。ヨーロッパの王侯貴族などの貴重な宝石を購入しアメリカを代表とする宝石商としての地位を得たのだ。そしてティファニーの代名詞ともなる初のダイヤモンドジュエリーの販売を開始し、当時の報道陣から「キング・オブ・ダイヤモンド」と称された。一方で数年後には現在でも有名な銀製品の取扱いを始める。

 1853年、C・L・ティファニーは共同経営者たちから経営権を買取り、現在まで使用されているティファニー&カンパニー(Tiffany&Company)に改称してティファニーはマンハッタンの中で何度か移転を繰り返し、1940年に現在の場所に移転。今でもボックス、フランネル(巾着袋)、などで活躍するアイコニックのティファニーブルー(イギリスのヴィクトリア朝時代、重要な台帳の表紙に使用され大切なものを表す色とされた「こまどりの卵」の青色)をカンパニーカラーとしたのは「我が社の商品はどれも気品高くあらねばならない」という信念と合致したからだ。1906年、ニューヨークサン紙に掲載されたブルーボックスにまつわる有名な記事がある。「ティファニーは、いくらお金を出されても売らないものが一つだけあります。ただしお客様がティファニーの商品をお求めいただければ無料で差し上げます。それはティファニーの名が記された箱です」。その価値感を大切にしてたのだ。品格漂うブルーボックスには同じく祝福、純粋、純真、完全など象徴的な意味をもつ白いリボンが結ばれ、リボンの端を引っ張ると簡単にするりとほどけるようラッピングに至るまで気配りをした。シンプルだが全美で現代のミニマリズムさえ感じさせられる。

2019年8月3日土曜日

週刊NY生活No733 7/20 宝石伝説18 ミキモトとアコヤ(養殖真珠)下

                        ミキモトとアコヤ(養殖真珠)

  1920年代、左右対称の機能的な美を追求したアール・デコは、パリ、ニューヨーク、ロンドンなどで同時発生的に流行した。それにマッチする、サイズと色合いが揃うアコヤ(真円養殖真珠)は時代の申し子となる。特にアコヤのロープは、空前絶後の人気を誇り生産も急増した。1929年、米国ウオール・ストリートの株が暴落し、大恐慌が始まるや否なや天然真珠も影響を受けて欧州でも取引ができない最中、天然、養殖、模造に限らず「真珠」はモードと切り離せない関係にあった。シャネルはそれまでの「ドレスにはコルセット」の概念を打ち崩し、体を締め付けない、ストンとした膝丈の黒いドレス『リトル・ブラック・ドレス』に真珠を合わせた。このテーゼに多くの女性が共鳴し、パーティーに欠かせないスタイルとなる。さらに真珠人気に拍車をかけたのがパリモード界だ。戦後、ディオールは優雅で女らしいスタイルのドレス(ウエストをしぼり、スカートを膨らませる)に真珠を合わせた。そして中産階級が台頭する大量消費社会のアメリカに進出して、ハリウッド映画のヒロインらの定番スタイルとなる。G・ケリーはその後モナコ公妃になるが、いつも真珠のネックレスが胸元で優麗な輝きを放っていた。M・モンローは、ハネムーンで来日した際、NY・ヤンキーズのJ・ディマジオから贈られた、ミキモトの真珠ネックレスを付けて人前に現れたことは有名だ。また、映画『ティファニーで朝食を』の冒頭で、早朝ジバンシイの黒いロングドレスを装ったO・ヘップバーンはタクシーから降り、少し千鳥足でNY5番街のティファニーのショー・ウィンドウに向かう。その背中は大きく開き豪華な何連もの真珠が重なり、紙袋からパンを取りだしほおばる彼女の姿は魅力的だ。

  アコヤは、天然真珠の価値を暴落させたことで排斥運動が続いたが、敗戦後状況は一変する。GHQによる日本統治が開始されると、来日する進駐軍将兵たちは愛する人に真珠を贈るため、帝国ホテルのミキモト真珠店に列をなした。また英盧湾にあるミキモト真珠養殖場はメッカとなり、マッカーサー夫人、米軍高官やその家族が真珠王(御木本幸吉)に会いに訪れた。1954年他界する(享年96歳)もミキモト参りは絶えず、世界に冠たる英国女王まで引き寄せるほど『ミキモトのアコヤ真珠』は威光を放ち現在に至っている。

週刊NY生活No.729 6/15 宝石伝説17 ミキモトと(養殖真珠)上

                      ミキモトとアコヤ(養殖真珠)上

  今日市場に出回る天然真珠は過去数百年にほぼ収集されたもので、大半は養殖真珠だ。数種類あるその中で、万国共通のアコヤ「Akoya」と呼ばれる養殖真珠は日本が世界に誇る宝石だが、元来天然ものは日本の固有種ではない。北緯10~30度に分布する東南アジア周辺の海域、アラビア、南インド、南米ベネズエラなどの陸地に入り込んだ湾に生息し、古代文明の各王国を虜にするほど最高な宝石だった。日本には遡ること約1万4000年前、黒潮の流れに乗り九州沿岸と三重の英盧湾など九州以北に到達した。『魏志倭人伝』によると、卑弥呼の後を継いだ壱与が中国に使節を送り献上した白珠500孔は、鹿児島湾に生息するアコヤ真珠といわれる。天然真珠の世界では、丸く美しい真珠が誕生するのは1万個に1、2個とされる(諸説あり)。それらを5百個集めるには相当数が必要で、繰り返し海に潜る漁労活動を営む集団とそれを支配する集中的な権力がその地に存在したのではと新たな邪馬台国論争が浮上する。
  コロンブスのアメリカ新大陸発見も、膨大な富と権力の象徴である真珠を欧州の君主たちにもたらし、やがて真珠貝採取漁業は急速に発展しいく。その一方で、乱獲や長時間の潜水により無数の人々が聴覚や感覚を失い、無尽蔵だと思われていた真珠貝は次第に減少する。すると真珠に対する欲求は高まっていった。

  1893年、御木本幸吉は世界で初めて半円真珠の養殖に成功した。それが元となり1900年代初頭、御木本(ミキモト)、見瀬、西川、上田、藤田らと真円真珠形成法を確立した。商業生産が本格化するとミキモトは英仏など海外に支店を出し、天然真珠がちょうどバブル時代を迎えて価格が高騰するなか価格を下げて販売を始めた。ところが、1921年ロンドンの夕刊紙『スター』が養殖による真珠を「ニセ真珠事件」としてとりあげ大騒動となるが図らずも英仏の真珠シンジゲートは天然と養殖の違いを見分ける術がなく、養殖真珠がいかに素晴らしいかを知らしめる結果となった。その騒動はフランスにも飛び火して、パリの真珠市場は一時閉鎖する。当時、高価な天然真珠のネックレスは支配階級やブルジョワだけが身に付けられる特権で、天然ものに引けを取らない養殖真珠が出回り価格が暴落するのを恐れたのだ。

2019年6月7日金曜日

週刊NY生活No.725 5/18/19'宝石伝説 16「ファベルジェのイースターエッグ」下

            「ファベルジェのイースターエッグ」(下)

  最後のインペリアル・イースターエッグといわれる『聖ゲオルギウス勲章』。1916年、ニコライ2世から母親の皇太后マリアに献呈されたもので、エッグの表面にはボタンがある。それを押すと、ゲオルギウスの十字架のところに皇帝と息子の皇太子アレクセイの肖像が表れる。これはファベルジェの皇室関連の作品の中で唯一、マリアが亡命先に所持していたものだ。
  これらのエッグは、ロシアの皇室だけではなく、チャーチル首相夫人、ロスチャイルドの分家、ロシアの実業家などごく限られた客の注文にも応じていたが、ロシア革命が起きたことでロマノフ朝の宮殿は荒らされ国外へ散逸した。そして最多のファベルジェのイースターエッグ(9個)を所有してたのは、アメリカの経済誌「フォーブス」の元発行人マルコム・フォーブスで、自身が経営するニューヨークのギャラリーで展示していた。彼の死後遺族により、2004年サザビーズのオークションに出品され、ロシアの大富豪にまとめて落札されたその金額は、当時の史上最高額1億ドルに達したという。購入者イヴァノフと代理人ヴェクセリベルグは「ロシア国民として国の歴史と文化を伝える貴重な品、世界最高峰の宝飾品を守ろうとした」とテレビの取材に答え、こうして2013年11月サンクトペテルブルクにファベルジェ美術館を開館した。
  現在約55個のファベルジェのエッグの内44個の所在が判っておりロシアが最多数を誇る。その次はアメリカで、財力と人脈によりそのコレクションを築いた屈指の蒐集家が5人いる。その1人が1929年に創業したゼネラルフーズの社主でアメリカ随一の女性大富豪マージョリー・メリウエザー・ポストだ。ダイアモンドがふんだんに散りばめられた巨大なエッグを2個所有し、遺言により彼女の立ち上げた財団に寄託し、現今はワシントンD.C.に私設美術館として開館したヒルウッド庭園美術館に所蔵・管理されている。ちなみに、アメリカ大統領D・トランプの別荘マー・ア・ラゴ(フロリダ州パームビーチ)を建設した彼女は、多くの歴史的な宝飾品と縁が深い。

週刊NY生活No.721 4/20/19'宝石伝説 15「ファベルジェのイースターエッグ」上

             「ファベルジェのイースターエッグ」(上) 

  昨年、デイズニー映画『くるみ割り人形と秘密の王国(The Nutcracker and the Four Realms)』が公開された。時代はヴィクトリア朝のロンドン。物語のキーとなるのが、主人公クララに亡き母が残した金色の卵型の飾り物。「この中には貴方が必要とするものすべてが入っています」と手紙が添えられていたが、鍵が見当たらず、それを探すためにミステリアスな4つの王国からなるパラレルワールドへ旅たつ。ようやく鍵を見つけて戻り、開くとオルゴール付きの鏡になっていて中は空っぽ。鏡には母が居なくなってから心を閉ざしたままの自分が写っていた。そしてハッと家族の大切さに気づく。母はそんなクララの心の鍵を開けてくれたのだ。
  映画に出てくる卵型の飾り物とは、インペリアル・イースターエッグをモデルにしたと思われる。それは1885年から1916年の間にロシアの金細工師ファベルジェが製作した大半がロマノフ朝ロシア皇帝アレクサンドル3世と息子のニコライ2世に納められたもので、宝石で装飾された金製のイースターエッグ約55個を指す。希少性が高く現在1個あたりの価格は推定3億5千万~20億円といわれる。最大の特徴は、装飾の美しさだけではなく精巧な仕掛け(サプライズ)にある。

  1885年、皇帝は結婚20周年の記念に、皇后マリアの出身であるデンマーク王家の所有する18世紀初頭のフランスのイースターエッグを参考にファベルジェに製作させた。これは金の素地に白いエナメルを厚塗りした簡素なヘン・エッグ(雌鶏の卵)で、中に金の黄身を仕立て、またその中に色味の異なる金を使った雌鶏が現れる。さらに小さなダイアモンドの王冠とルビーのペンダントが入っていたという。その後、次第に豪華な飾りと複雑な仕掛けが施されていく。なお、ニコライ2世の戴冠に際して作られたエッグは、1897年のイースターの時に皇后アレクサンドラに贈られた。表面はエナメルが散りばめられたプラチナで、ダイアモンドとルビーが装飾されている。その中にすべての可動部分を再現したエカテリーナ大帝の馬車の精密なミニチュアが仕込まれている。

週刊NY生活No.717 3/16/19'宝石伝説 14「バローダの月」下

        「バローダの月」下

  1914年に第一次世界大戦が勃発すると、イギリス領だったインドも参戦を余儀なくされ経済的にも疲弊した。その影響はマハラジャにも及び、当時バローダの月を所有していたサヤジラオ・ガエクワド3世は、財政を立て直すべく多くの宝飾品とともにバローダの月も放出した。その後は長きにわたり行方不明になってしまう。
  バローダの月が再び表舞台に姿を現したのは、それから約40年後の1953年アメリカのハリウッドにおいてであった。所有者はデトロイトの宝石商メイヤー・ローゼンハイム。彼は自社の宣伝のために、ハリウッド女優にこのダイヤを身に付けさせることを思いつき、当時新進女優として注目を集めていたマリリン・モンローに白羽の矢を立てた。1926年にアメリカのロサンゼルスで生まれた彼女は20世紀を代表する大女優。真っ赤な口紅を塗った唇、目元のホクロ、モンロー・ウオークといわれた独特の歩き方がセクシーで、「アメリカの恋人」、「20世紀のセックスシンボル」などと謳われた。これを受けて制作されたのが1953年公開の「紳士は金髪がお好き」でモンローの代表作の一つであるミュージカル映画だ。バローダの月を身につけながら、彼女は「ダイヤモンドは女の子の1番の友達」と歌う。当時ダイヤモンドは裕福な人々が所有するもので、現在のような婚約指輪の定番である身近な宝石ではなかった。その頃まだ庶民的な女優であった彼女がバローダの月を身につけることにより、手の届かなかったダイヤモンドが庶民の憧れとなり、ダイヤモンド業界が活性化したともいわれている。作品の大ヒットがきっかけとなり、彼女は大女優の道を歩む。また、映画のプロモーションの際に、モンローがこのダイヤを身につけた妖艶な姿が新聞や雑誌でたびたび取り上げられ、世界で最も有名な宝石となった。

  2012年テレビ東京の番組「開運なんでも鑑定団」に、バローダの月の所有者である日本人の男性が出演した。その鑑定額は1億5000万円だったが、現在この宝石は再び消息不明となっている。

週刊NY生活No.713 2/16/19'宝石伝説 13「バローダの月」上

                          「バローダの月」上

 「バローダの月を身にまとった者は世界に名高い人物になる」という伝説がある。それは、その輝きがまるで月の光のようで、Moon of Baroda(バローダの月)と呼ばれた世界的に有名なファンシーイエローダイヤモンドのことである。
  一般にダイヤモンドの色は無色から淡黄色であり、業界で使用されるDからZのカラーグレーディング スケールにより表示される。 一方でファンシーカラーダイヤモンドは、フェースアップでZの範囲を超える色を呈するイエロー及びブラウンのダイヤモンドが多く、その他あらゆる色があるが、その色合いによって希少性は高まる。通常ダイヤモンドは着色が見えるほど価値が下がるが、 ファンシーカラーダイヤモンドではこれと正反対になる。その価値は一般的に色の濃さと純度に応じて高くなり、 大きくて鮮やかなファンシーカラーダイヤモンドは極めてまれであり、殆どは純度も濃さも低いものが大半だ。 
  インド北西部のバローダで産出された、24.043カラットのペアーシェイプ(洋梨型)にカットされたバローダの月は、その当時この地を治めていたマハラジャのガエクワド家が長い間秘蔵していた。18世紀に入り、このダイヤの新たな所有者になったのは、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公、ハンガリー女王、ボヘミア女王で、ハプスブルク帝国の領袖であり、神聖ローマ帝国の女帝マリア・テレジアであった。彼女の手に渡った経緯は定かではないが、一説によると、父のカール6世の時代からガエクワド家と交易があった関係で譲渡されたという。彼女は宝石をこよなく愛したことで知られ、数多くの肖像画にも描かれている。なかでもバローダの月は特別で、ハプスブルク家の家宝として受け継がれた。しかし1860年にこのダイヤは再びインドに舞い戻る。熱烈な宝石収集家だったマハラジャのムルハルラオ・ガエクワドが、莫大な財力に物をいわせかつての家宝を買い戻したからである。

2019年4月4日木曜日

週刊NY生活NO.709 1/19/19`宝石伝説 12「ドレスデン・グリーン」下

                    「ドレスデン・グリーン(下)」

  七年戦争終戦後、グリーン・ダイヤモンドは勲章「ゴールデン・フリース」から外され、帽子用ブローチに作り変えられた。1741年から約200年もの間ドレスデンに留まっていたこの宝石は、第二次世界対戦開始前までは一般公開されていたという。終戦後ソビエト連邦の戦利品としてモスクワに運ばれ、その13年後ドレスデンに返還されて以降、アルベルティーニム美術館に落ち着いた。この200年もの間ドレスデンの地で人びとを魅了してきたことから、一般に「ドレスデン・グリーン・ダイヤモンド」と呼ばれるようになった。
  2000年にこの宝石はアメリカにわたり、ニューヨークのハリー・ウインストンサロンで展示された後、その年の10月から約1年間、ワシントンD.C.のスミソニアン博物館にあるハリー・ウインストン・ギャラリー内の「ホープ・ダイヤモンド」(45.72ct のグレーかかった濃青色)の隣に展示された。ヨーロッパの王室に所有され、数世紀に渡り人々を翻弄しながら大陸を横断してきたという共通点を持つ「ホープ」と「ドレスデン」は「姉妹」のような存在といわれダイヤモンド史上、最も希少性の高い重要な位置ずけに値する至宝である。両者を並べて展示するウインストン氏の長年の夢が叶ったというわけだ。  
  
  世界で発掘されるダイヤモンドの多くは窒素を含有するタイプ I 型(a.b)で、その量にもよるが、多少なり黄色味を帯びる。このグリーンダイヤモンドはそれを殆ど含まないタイプ II型。その色因は結晶構造内で、放射線が炭素原子を通常の位置から転換することにより生じる。市場には人工的に緑色を入れられたダイヤが出回っているが、41ctもある「ドレスデン・グリーン」は自然発生による天然の緑色を有し、クラリティーも申し分なく唯一無二のダイヤモンドだ。

  このお宝に無色のダイヤモンドが散りばめられた絢爛豪華な帽子のクラスプは現在、ドレスデン宮殿にあるザクセン王家宝物館の「緑の円天井(グリーンヴォールト)」の部屋に鎮座している。

週刊NY生活No.706 12/15/18' 宝石伝説 11「ドレスデン・グリーン」上

                 
  「ドレスデン・グリーン」上

 「インドから帰国したばかりのマーカス・モーゼス氏は、緑色の大きなダイヤモンドを抱えて、時のイギリス国王ジョージ1世に謁見した。そのダイヤモンドを見るなり、国王と妃殿下はたいそう驚いたが、購入するまでには至らなかった。ちなみにその価格は1万ポンドだと言われている」と書かれたこの記事は1722年10月、ロンドン市内で配布された地元新聞紙「The Post Boy」の紙面で、のちに「ドレスデン・グリーン」と呼ばれるようになるグリーン・ダイヤモンドが取り上げられた、現存する最も古い歴史的資料である。
  18世紀に入って発掘されたこの宝石の産地は、ブラジル説もあるが南インドのゴルコンダ鉱山の可能性が高い。そして、ロンドンに住むユダヤ系のダイヤモンド商人として事業を成功させていたローゼスにより買い取られた。数年後、ザクセン選帝侯アウグスト1世(ポーランド国王としてはアウグスト2世で、芸術や建築をこよなく愛し、ドレスデンを中心にバロック建築を取り入れた多くの宮殿を建設)に、この宝石を3万ポンドでオファーを試みたが、売却するには至らなかった。
  やがて1741年、モーゼスの手から離れたこの宝石はオランダ商人の手を経て、アウグスト1世の息子であるアウグスト2世(ポーランド国王としては3世)の元に渡った。その金額は、軍事費に匹敵するほどの金額だったと言われる。

  息子のアウグスト2世の所有となったグリーン・ダイヤモンドは、父親の1世がドイツのハプスブルク帝国の同盟者の一人として金羊毛騎士団の騎士に叙任された時の勲章(ゴールデン・フリース)に、ウイーンの金細工師によりセッティングされより輝きを増した。その後、ヨーロッパで7年戦争(1756-1763年)が勃発し、ドレスデン城のグリーン・ヴォルト・ルームに安置されていた煌びやかな勲章は、王室宝飾コレクションとともに戦火をのがれるため、ケーニッヒスシュタインの要塞に保管されたのである。

2019年1月26日土曜日

週刊NY生活No.702 11/17/18' 宝石伝説10故宮博物院「肉形石」

                           故宮博物院「肉形石」

  中国の歴史に一石のみならずニ石を投じた世界的にも有名な豚肉料理がある。1079年、中国北宋代の政治家・詩人・書家の 蘇軾(そしょく)は黄州に左遷され、「晴耕雨読」の生活を送りながら当地の豚肉を称えその醤油煮を考案した。また黄州にちなんで彼は東坡居士と号した。北宋第6皇帝の神宗(しんそう)が没した後、彼は中央政界に復帰するが政争に巻き込まれ1089年、再び今度は杭州に左遷される。地元に貢献した彼は、お礼に豚と紹興酒を献上され、得意の豚肉の醤油煮を作り人々に振る舞った。それを絶賛した人々が料理を蘇軾の号から「東坡肉 (トンポーロー)」と名付け、その後料理店でも定番となり現在に至る。調理法は皮付きの豚バラ肉を酒、砂糖、香りづけに八角を加え醤油で煮詰める。これが一石めだ。
  ニ石めは、子供の拳くらいの大きさで、テリのある飴色のプルプルとしたゼラチン質の皮の下に、今にも崩れそうなほど柔らかくなったぶ厚い脂身と、わずかな赤身の層が重なる、どの角度から観ても本物そっくりの東坡肉で、「肉形石」の号を持つオブジェだ(作成は清朝時代)。故宮博物院の翡翠白菜の並びに展示され、小腹の空いた人を次々と誘惑する。
  オブジェに使用されている石は「カルセドニー (玉髄)」 の仲間である「ジャスパー (碧玉)」と記されているが、この石は不透明で湾曲の縞がないことから、同族の透明度も湾曲の縞も有する、「アゲート(瑪瑙)」であると推測される。ただし、ジャスパーという用語は、特定の命名がされていないカルセドニー全般に用いることがあるので間違いではない。
  カルセドニーは水晶と同じクオーツファミリーの鉱物で、あらゆる地域で採取される最も安価な半貴石だ。

  先の蘇軾は東坡肉を「金持ちはこんなもの食おうとしないし、貧乏人は煮ることを解しない・・・自分で満足できれば他人がとやかく言うことはない」と詠った。美味なそれと、本来なら金持ちが見向きもしない石に加工を施し「宝の石」に蘇らせた作者不明の「肉形石」に妙な共通点を感じるのだ。

週刊NY生活No.698 10/20/18' 宝石伝説9故宮博物院「翡翠白菜」

                          故宮博物館「翡翠白菜」

   日本でも馴染み深い結球白菜の原産地は中国北部で、端正な砲弾形をした葉色は白から緑のグラデーションの柔らかく淡白な味わいの特有な野菜だ。もうひとつ、中国だけではなく世界が誇る食べられない結球白菜が存在する。それは滅多に産出されない質の高い大きな硬玉(翡翠)の原石に、その色彩の分布の違いを活かした「俏色(しょうしょく)」という技法による彫刻を施し、見事に白菜を再現したものだ。
  諸説あるが、中国の清王朝の末期に君臨した第10代の皇帝 光緒帝(こうしょうてい)の妃となった瑾妃(きんひ)が宮廷に輿入れするとき、その頃中国南部の広州を治めていた瑾妃の実家・他他拉(たたら)氏は長叙の彼女のために、上部には子孫繁栄を込めてイナゴとキリギリスを彫り込んだ翡翠白菜(作者は不明)を持たせた。中国で結球白菜は清純潔白を象徴する特別な野菜とされる。良質な翡翠原石が現在でも産出されるミヤンマーと山岳地帯続きの中国雲南省は、広州と距離も近いのでこの原石を入手できたと思われる。
 1888年、妃として北京の宮廷に入った瑾妃は紫禁城の永和宮を住まいとし、当時の政局動乱のなか(実質的な権力を振るっていたのは西太后)、一時は西安に避難するものの翡翠白菜を手放すことなく生涯を閉じ、その後この至宝は中国各地を転々とする。1948年、中国国内で始まった国共内戦で敗北濃厚となった蒋介石率いる中華民国政府は、翡翠白菜をはじめ逸品三千点を台湾に輸送して、台北市に建てた国立故宮博物館に収蔵した。

    展示されている翡翠白菜は、手を広げた程度の高さで実際の白菜より小ぶりだが、鮮明で半透明な白から緑の色合いの葉に、息づかいさえ感じさせる妖艶なイナゴとキリギリスが潜んでおり、その秀麗さに時の経つのも忘れる。地球上の無機質の貴石(翡翠)と有機質の白菜と昆虫を融合させた、宇宙の創造主への最高なオマージュではないかと思わず手を合わせた。