Jewelry sommeliere

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津延美衣(つのべみえ)NY州立大学FIT卒業。米国宝石学会鑑定有資格者(GIA-GG,AJP) 運命学・自然医学・アート・アロマテラピー・食文化などの知識を元に感動的な人生を描くプランナー・エッセイスト・キュレーター兼ジュエリーソムリエール(Jewelry sommeliere) 美時間代表。

2025年2月3日月曜日

週刊NY生活No.9911/18/25' 宝石伝説84 縁起物と宝石「龍と如意宝珠(血赤珊瑚)」4

        
         縁起物と宝石「龍と如意宝珠(血赤珊瑚)」4

 

 天台宗の開祖である最澄は、法華経を教義として「誰でも平等に成仏できる」という考え方を大切にし、仏の教えの根本は一つであるという「法華一乗=全ての仏教は大乗の悟りに至るため」の思想を展開した。法華経の「薬草喩品第五」に三草二木の喩えがある。それは、大小様々な草木(衆生をさす)が生い茂っている森林(世の中)に、雨は平等にあまねく降りそそぐという一乗の教えだ。そして草木はみなそれぞれの大きさ(今世で授かった己の器)にしたがって潤い共存共栄し生長していく。すなわち成仏とは、世の中の真理(自分が存在している境遇)に目覚め、真実を見抜く洞察力を磨き、今世での己の器を理解して最大限にそれを活用し前向きに生きていくための智慧をだすこと。ちなみに大乗とは、多くの者が一緒に目的地に到達する乗り物をさす。また、テーブル上のご馳走を皆んなで頂き喜びをシェアする大欲のことだ。

「提婆達多品(ダイバダッタホン)第十二」にて、女の性は成仏が難しいとされるなか、娑伽羅龍王の第三女龍女がお釈迦さまに如意宝珠を奉納したことにより悟りがひらけ(六道の解脱)ができた。龍神様がもつ如意宝珠には天界(物質世界)において絶対無二の効力がある要素が含まれているのに対し、菩薩界の地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、如意輪観音、吉祥天などが手に持つ如意宝珠の意味合いはもっと精神的な要素が大きく、お寺や舎利塔の屋根に宝珠の飾りを取り付けたり、橋の欄干の親柱に「擬宝珠(ぎぼし)」がつけられるのは病を治したり災いを退ける力などになる。

 ところで、昇龍は運気上昇、降龍は幸福を届けるという全てのエネルギーの源。陰陽五行(木・火・土・金・水の5元素)説の思想によると、青龍は「木」にあたり東方を守護。仕事運・勝負運を高め、商売繁盛。赤龍は「火」にあたり南方を守護。意欲・勝負運が高まる。金龍は「土」にあたり中央を守護。五穀豊穣の神で金運・財運を高める。白龍は「金」にあたり西方を守護。精神面・物質面から金運・仕事運・結婚運を高める。黒龍は「水」にあたり北方を守護。人間関係を守り健康運を高める。

 さて、龍は王朝時代、東アジアにて最高位の象徴王に与えられ、一般的に男性が女性に求愛するとき簪(かんざし)をあげる風習があったが、当時、王后に贈られた宝珠の血色珊瑚(幸福・長寿の意味)をくわえる龍(純金七宝仕上げ)の簪は特別な逸品となる。


週刊NY生活No.988 12/14/24' 宝石伝説83 縁起物と宝石「漆の堆錦(ついきん)加飾法による龍」3

     
      縁起物と宝石「漆の堆錦(ついきん)加飾技法による龍」3


 如意宝珠はどんな願いもかなえる龍の珠として、世界的にも有名な日本の漫画作品「ドラゴンボール」のモチーフにもなった神通力の源といわれる反面、思考はさまざまな煩悩を生む源でもあるため龍は宝珠を持っている限り悟りを開くのは難しいとされる。それは仏教が最終的に目指すものが地獄→餓鬼→畜生→阿修羅→人間→天を六道輪廻といいそこから解脱することで、その後の声聞→縁覚→菩薩→仏界と入っていくことを理想とするから。これらすべてを合わせて十界互具(じっかいごぐ)という仏教の教えになり、私たちが何か願いごとをするときに思わず手を合わせる合掌につながる。さらに地獄界~仏界まで同じところに存在しており、十界のそれぞれに他の九界が備わっていることを意味する。例えば私たちの人間界において、とても考えられないような悲惨なことが起こっている様子は地獄界、おもに本能的生命を維持する行いをするのは畜生界、争い(戦争)が起こっている現象は阿修羅界、生命を尊重しながら精神的な満足を追求するのは人間界、そして物質や精神的なものが満たされている現象は天界となる。その六道の最終的な修練となる天(上)界において、如意宝珠は絶大な効力を発揮する要素となるのだ。

 ところで西暦574年に生まれ、法華経を読んで悟りを開いた中国のお釈迦さまといわれた天台大師の生まれ変わりとされる聖徳太子は、法華経の注釈書をつくり仏教精神にもとづく十七条憲法を定めた。その後、伝教大師最澄上人は天台大師の教えを学び、聖徳太子の理想を日本全国に広めるため比叡山に天台宗を開いた。そして法華経を中心とする天台教学(理想と実践哲学)を打ち上げ、『法華三大部』という今でも多くの仏教教団に深い影響を与え続けている本を世に出した。その法華経にて、釈尊の産湯に立会い甘露水を注ぎ祝い、釈尊が霊鷲山で法華経を説いた際に拝聴したその後、仏教の守護神となった八大龍王「難陀(最も優れた龍王と称される)」「跋難陀」「娑伽羅」「和修吉」「徳叉迦」「阿那婆達多」「魔那斯」「優鉢羅」のことが語られている。

 さて、龍神様はアジア地域全般で縁起物として昔から珍重されているが、中国から伝承された沖縄の琉球漆器に模様が浮きあがる日本独自の堆錦加飾技法により、ボールペンの表面を勢いよく覆う龍神様が蘇った。


週刊NY生活No.984 11/16/24' 宝石伝説82 縁起物と宝石「龍と如意宝珠(翡翠)」2

         



                      縁起物と宝石「龍と如意宝珠(翡翠)」2


 2024年の干支は「十干」と「十二支」を組みあわせた甲辰(きのえたつ)。その組み合わせは60種類あるので今年の十干の「甲」と十二支の「辰」が重なる60年に一度の年となる。「甲」はもともと亀の甲羅の「硬い外皮」を形容した漢字で、「よろい」や「かぶと」などを意味するようになった。その起源は、紀元前11世紀から16世紀にかけての中国の殷(いん)の時代にさかのぼる。甲は古代中国の歴である十干の第一番目の文字にくる優勢であることを表す記号であることから、契約書を交わすとき当事者の関係や順番を示す場合に「甲・乙」という表現が使われる。一般的に、甲はお客様や貸主などの立場が上の場合、乙は事業者や貸主などの立場が下になるときに用いられる。さらに「甲乙つけがたい」という言葉には、第一と第二の優劣を決めづらいという意味があり、かつての学校の成績(甲・乙・丙・丁)でいう甲と乙の差がつけにくい意もある。そして、十二支の五番目の干支となる「辰」の語源は、振るうという意味で草木が整った状態を表しているとされるのになぜ動物の龍(竜)が当てはめられたのか。後漢(中国)の時代の「論衡」という著書に「雷龍同類」という文言があるが、雷が起こると龍が天に昇るという伝説からきているとのことで、確かに雷が空を走る様子は龍の姿にも見える。日本の「今昔物語」においても龍が出てくる話では雷が発生する。龍のような姿の雷が落ちると大きな音とともに周りがふるえることから振動の意がある「辰(ふるう)」につながりそれで「辰」は「龍」に喩えられたという説があることには納得がいく。ちなみに、「龍」は旧字体、「竜」は新字体および常用漢字で生物上の意味は同じとなる。

 ところで、龍が口にくわえたり手に持っている如意宝珠は、「意のままに」という意味を持つ「如意」と宝物を意味する「宝珠」を組み合わせた言葉で仏教発祥となる。サンスクリット語では思考を意味する「チンタ」と珠を意味する「マニ」を合わせた「チンタマーニ」と呼ばれるが、仏教においても、感情や感覚をどう受け止めるかは思考次第で、苦を楽にとらえることもできる「世界を変える力を持つ宝の珠」となる。

 さて、ペンダントの龍が手に持つ珠は、東洋のエメラルドと呼ばれる美しい緑色の翡翠(ひすい)で龍と深い繋がりがある相性が良い組み合わせとなる。龍体そのものや如意宝珠に用いると、富と繁栄、長寿の意味合いがより増すとされる宝石だ。


週刊NY生活No.980 10/19/24' 宝石伝説81 縁起物と宝石「龍とタイガーズアイ」1

          
        縁起物と宝石「龍とタイガーズアイ」1


 干支は、十干(天を司る、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と、十二支(地を司る、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)の2つの要素を組み合わせた60を周期とする数詞が本来の意味となる。例えば、今年2024年生まれの子どもの干支を聞かれたとき、甲辰(きのえたつ)と答えるのが正しい。昔から数え年で61歳を迎える還暦で、赤いものを身につけお祝いをしてもらう習わしがある。人間は十干(天)と十二支(地)の組み合わせで生まれてくるので、十干と十二支をかけた120年が私たちの寿命となるようだ。60~61歳はその折り返し点となり、それまで生きてきた感謝の気持ちと酸いも甘いも噛み分けてきたことをこれからも活かして生きていくことの願いが込められたのが還暦のお祝いとなる。さらに、この年齢を「耳順」と呼ぶのは、人生の修養を積んでやっと他人の言葉を素直に受け入れらるという『孔子(こうし)』が晩年に語ったことからくる。すなわち、天から与えられた使命感が分かる年になったということだ。それ以降も、70歳の(古希)~100歳の(百寿)などの長寿のお祝いは続くそれらを節目年齢という。

 話は変わるが、その年の干支を部屋に飾ったり持ち歩くことは福を招き、無病息災や厄除け祈願の意味があると同時に年神さまをお迎えするという意味もこめられていることから、年始に神社仏閣へお参りに行くとその年の干支にちなんだ縁起物が並ぶ。なかでも十二支の辰(龍)はもっとも縁起の良い干支と言われており、さまざまな願いを叶えてくれるだけでなく「昇り龍」といわれるようにあらゆる物事を上昇させ、いい方向へ導いてくれる力があるとされている。さらに、十二支のなかで唯一の空想上の生き物である龍は、中国では古来より権力・隆盛の象徴として親しまれてきた。そのラッキーアイテムを気楽に求めることができて身に付けられるのは、水晶とタイガズーアイによるブレスレットやブローチなどだ。その2つの宝石の組合せはとても相性が良く、とくに金運が高くなるといわれる。和名を虎目石というタイガーズアイの最大の特徴である名前の由来は、研磨すると光の反射によってきらめく「シャトヤンシー(光線狀)」で、金褐色の細かい縞模様が虎の目の虹彩を思わせることからきている。ところで、この石はシリカ酸塩鉱物である石英(クオーツ)を主成分とする水晶の仲間でもあるのだ。

2024年11月4日月曜日

常陸国が誇るー進化する伝統工芸と匠の技ー展

                                                     常陸国が誇るー進化する伝統工芸と匠の技ー展   by crafteriart gallery 

 古来から日本人は、生活必需品を地域で取れる良質な素材を選んで一つ一つ心を込めて手作りし手入れをしながら長く使う風習がありました。昭和49年、経済産業大臣による「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」が制定されました。1、日常生活に使われる伝統的な原材料・技術・技法による殆どが手作業で製造されたもの。2、一定の地域に生産者が集まっていること。それに準ずるものは茨城県に 結城紬、笠間焼、真壁石燈蘢があります。なお、茨城県では知事による「茨城県郷土工芸品指定要領」(昭和62)があり、内容はほぼ同様で「5年以上県内において製造されいて将来に渡り継続が見込まれるもの」が加わります。


  本展では、日常生活のなかで育まれてきた日本人の知恵と熟練を要する伝統の技を継承しながら、他県ではあまりない独自のスタイルを追求できることにより進化を遂げてきた、常陸国(茨城県)の誇る匠の技をご紹介致します。特に県内の方々に「灯台下暗し」となっていると思われるそれらの素晴らしさを再認識するとともに周知して頂き、茨城県伝統工芸のさらなる発展につながると幸いです。


1、いばらき組子 安達克敏/将伍

昔から障子や欄間などの建具の装飾として用いられてきた組子細工の起源は飛鳥時代といわれ、日本最古のものは法隆寺の金堂にあります。組子は長い年月をかけて磨き抜かれてきた木工技術で、釘を使わずに細く引き割った木に溝・穴・ホゾ加工を施しカンナやノコギリ、ノミで調節しながら1本1本組み付けていく、わずかな寸法の狂いも許さない熟練した職人によって創り出すことができます。安達建具の三代目安達氏は長男とともに建具製作、デサイン組子製作も手がけ日本初となる立体的な組子(行灯)を発表しました。


2、笠間焼 大貫博之

笠間焼は江戸時代中期に始まり、恵まれた環境下で関東最古の窯を守りながら今日まで生活雑器を中心に生産しています。一方で、笠間の地は伝統や格式に縛られない日本でも有数の産地で、全国から陶芸家が移り住み各々の世界観を自由に表現できます。そのなかで、大貫氏はグラフィックデザイナー出身の経験を生かし、身近にある野の草花をモチーフにした線象嵌と色絵の技法を用いた「彩時器」、書道の筆の運びをイメージした「モノトーンの器」、最近では模様をつけた「白彩器」などを制作しております。


3、桂雛 小佐畑孝雄

 「桂雛(かつらびな)」とは、かつては徳川家の城下町として、建築職人や工芸職人などが住み着いた旧桂村(現城里町)より名前が付けられた雛人形のことです。この地は、明治中期頃から埼玉県・静岡県と並び代表的な雛人形の産地でしたが衰退が進むなか「桂雛」は、伝統ある雛人形を復活させると同時に昨今のニーズに応える雛人形作りをしております。通常は分業の雛人形の体部を一貫して手作りで製作するその製造法と技法が高く評価され、平成3年には「茨城県郷土工芸品」に指定されています。


4、大子漆(八溝塗) 辻徹

大子漆は圧倒的に透明度が高く上質で美しい艶が最大の特徴です。輪島塗や春慶塗など高級漆器の仕上げ用に使われたり、国宝建築の修復にも採用されています。辻氏は太子町に残る最高級の漆と漆掻きの文化を絶やすまいと一念発起し自ら樹液の採集を始めて「太子漆 八溝塗」を立ち上げました。現在は工房のスタッフと共に、漆の栽培から木地の製作・漆塗りまでの全工程を手がけています。その透明感や艶、使えば使うほどに味わい深くなる“本物”の良さを実感してもらいたく手頃な価格で普段使いの漆器を提供しています。


5、西ノ内町和紙 菊池大輔

 江戸時代から伝わる西ノ内和紙は、古くから和紙の原料である最高級の那須楮(こうぞ)を使用し、奥久慈の清らかな水で漉き出される国・県の無形文化財です。丈夫で水に強く防虫や除湿の機能性が高いことから四季を通じて最適な環境を保つ庶民生活の日用品として重宝され、徳川光圀が編纂した「大日本史」や商家の帳簿「大福帳」などに用いられます。その伝統を継承する「紙のさと」の四代目、菊池氏は那須楮の栽培から紙漉まで一貫して担う傍ら、強靭な紙の特性を生かした小物、インテリア作品なども手掛けてます。

 

6、本場結城紬 花田啓子/千裕

奈良時代、茨城県と栃木県にまたがる鬼怒川流域にて作られてきた結城紬は、手で紡ぎだした太糸の絹織物として朝廷に上納されます。鎌倉時代、領主であった結城氏の名から結城紬と呼称され全国的な知名度が高まり、のちに染法や、職人の高い技術を要する「経緯絣(たてよこかすり)」の技術が生まれ品質は向上。戦後、細かい糸を用いた絣は精緻化され軽量化が進みます。花田氏は、心地良く経年変化による風合いが魅力な絹織物の最高峰である結城紬を現代風にアレンジし、オリジナル作品を誕生させています。


7、水府(すずも)提灯 鈴木茂兵衛商店/ミック・イタヤ

水府提灯は日本の三大産地の一つです。提灯とは軽くて持ち運びが楽で小さく畳める照明器具のことです。江戸時代、水戸藩で土地の生産性の評価にあたる米の収穫量が大幅に下回り、窮乏化した下級武士らは自らの生活を支えるために提灯作りを始めました。その伝統的な技術を江戸時代から現代に伝える老舗が鈴木茂兵衛商店です。七代目鈴木降太郎氏は、新たな視点から照明器具とし現代の暮らしに対応できる提灯づくりに励み、ミック・イタヤ氏とのコラボにより「すずも提灯」を誕生させました。



 


ー進化する常陸国のお雛様と匠の技ー展


                                                  -進化する常陸国のお雛さまと匠の技- 展

                              

 かつては徳川家の城下町として建築家や職人が住みついた歴史ある茨城県の旧桂村(現城里町)は、雛人形「桂雛(かつらびな)」の産地ですが、近年に入り少子化にともなった衰退化が進んでいます。そこで、「桂雛」の現在三代目となる小佐畑孝雄氏は、先代から続く宮中ゆかりの雛人形を、伝統を守りつつ芸術性を追求しあらゆる人々が一年じゅう部屋に飾って楽しめる日本初となるインテリア・アートの『Hina Doll 』として甦らせました。小佐畑氏は、日本の伝統色・文様と平安時代の貴族の嗜みである十二単に使われた『襲色目(かさねいろめ)』を、Hina Dollの衣裳に取り入れ、壁掛アート作品としても表現しています。江戸幕府の贅沢禁止令により庶民は装いに地味な色を強いられたので人との違いを図り、茶色や鼠色を微妙に染め分けたことから「四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃひゃくねずみ)」という言葉が生まれました。その反動もあり人々は裏地に派手な色合いや絵柄を用いておしゃれを嗜みました。それを表地にした衣裳を纏うひな人形は粋を感じられます。「粋」とは、多彩に着こなす江戸っ子の姿を表現したものです。


 本展では、ユネスコ無形文化遺産に登録されている「結城紬」や京都の「西陣織り」、そしてフランスのアンティークレースなど、国内外の伝統的な衣裳を纏ったHina Dollのセレモニーやイベントに応じた飾り方を、伝統的なひな飾りとともに紹介します。目玉として、上皇后がお召しになった結城紬の着物と同じ反物で仕立てた着物とさらに、その結城紬を身に纏ったHina Dollも展示します。

 また、ひな飾りはさまざまな伝統工芸士の技が集結して舞台を演出するように完成されます。その背景に欠かせない屏風や台、灯りなどの大道具・小道具は、主に地元の職人たちによる「すずも提灯/水府提灯」「西の内和紙」「笠間焼」「大子漆」「かな料紙」「桐細工」「組子」などで作られています。それらを手がけた匠の技のオリジナル作品を展示するコーナーを設けています。


本展を通して、茨城県内で育まれてきた伝統工芸の美を堪能していただければ幸いです。


Evolving Hitachi Province’s Hina dolls and craftsmanship


The former Katsura Village (currently Shirosato Town) in Ibaraki Prefecture, where architects and craftsmen once lived as a castle town of the Tokugawa family, is a production area of hina dolls "Katsurabina", but in recent years, the decline has progressed with the declining birthrate.

 Therefore, Takao Kosahata,  the third-generation successor of "Katsurabina", has revived the hina dolls as the first interior art in Japan that can be enjoyed in rooms year-round, pursuit of artistry with tradition, from related to the Imperial Court. Kosahata incorporates traditional Japanese colors and patterns,  also  the “kasane irome” of  the twelve-layered ceremonial kimono from the the Heian period, into the costumes of Hina Doll, and also expresses them as wall-mounted artworks.

 Due  to the Edo Shogunate's ban on luxury,  common people were forced to wear subdued colors. To distinguish themselves,  they dyed subtle variations of brown and rat colors thus the word "Shijuhacha Hyaku Nezumi" (forty-eight brown, one hundred mouse colors) was born. With that reaction, people enjoyed fashion using flashy colors and patterns on the lining. Hina Dolls wearing such costumes not on the lining but outer surface, feels “Iki”. incidentally “Iki” represents the stylish and sophisticated fashion of the  Edo people.


The exhibition, will introduce Hina Dolls wearing not only traditional domestic such as "Yuki Tsumugi" registered as a UNESCO Intangible Cultural Heritage, and "Nishijin weaving" from Kyoto but also  French antique lace. And  how to decorate Hina Dolls according to ceremonies and events. 

The highlights of the exhibition are a display of kimonos made from the same Yuki Tsumugi fabric worn by the Empress, and Hina dolls dressed in the same Yuki Tsumugi fabric.

 

Furthermore, hina doll displays are completed with the skills of various traditional craftsmen as like produce a stage. Essential background elements such as folding screens, stands, and  lights are mainly made by local craftsmen, including "Suzumo (Suifu)Lantern",  "Nishinouchi Washi",  "Kasama pottery ",  "Daigo Lacquer", "KanaPaper", "Paulownia Woodwork", and "Ibaraki Kumiko. "  A special section will showcase the original works of the craftsmen. 


We hope you appreciate the beauty of the traditional crafts that have been nurtured in Ibaraki Prefecture.

週刊NY生活No.976 9/21/24' 宝石伝説80「日本の神々『宇迦之御魂神』3」53

   山梨と宝石「日本の神々『ウカノミタマノカミ(宇賀之御魂神)』3」53


『記・紀』にて存在が薄いイザナギノミコト(伊弉諾尊)の子、三貴神の1人ツキヨリノミコト(月夜見尊)が『日本書記』の神代紀にはじめて活動を見せる場面は、保食神のウケモチノカミ(伏見稲荷大社祭神の筆頭ウカノミタマノカミと同神)が現われ、その口からはきだしたもので、国・海・山から幾多の食物や蚕が生じ、穀物は田植えして蚕は口にふくんで糸をひきだしたところあたりだ。これは地上生活を送るうえで不可欠な農業と養蚕の起源に値する。ちなみに、繭を口の中にふくみ温めうるおして糸口を取り糸を引きだす原始的な製法は、日本最古の歴史を有する茨城県の結城紬の製法と一致する点が多い。さて、月の運行によって判断する太陰暦に基づく季節や天候による種まきや苗うえなど植物栽培の端緒を開いた「夜の食国(おすくに)を治める」ツキヨリノミコトを祖神として祀るのは、宇佐神宮(4万社ある八幡総本宮)を司る菟狭(うさ)族。古語にある「食国政申大夫」(おすくにまつりごとをもうす君)という名詞は、政務を天皇に申し上げる人のことで大臣をさしていう呼び名だ。皇室が先祖に対して祭祀をおこなう日本最高格の神社は「二所宗廟(にしょそうびょう)」といい、現在は伊勢神宮と岩清水八幡宮だが、奈良・平安時代までは宇佐神宮が伊勢神宮以上に重要視されていた宗廟で、聖武天皇の時代に奈良の大仏鋳造のさいや、皇位継承のときなどは宇佐神宮の託宣でものごとを決めていた。その宇佐神宮下宮にて毎日神饌米を炊き上宮に献げる御炊殿(みかしぎでん)を預っていたのは、伊勢神宮三神主の祖先神のアメノムラクモノの命で祭神はウカノミタマの神だ。

 ところで「崇神紀」によると諸事情によりアマテラスは宮廷の外に遷されたのち、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の二つからなる伊勢神宮に鎮座された。アマテラス大神がトヨウケ大神の神坐の前で調理された神田の御稲を食べる「宵明けの大御饌(おおみけ)」の儀は、伊勢神宮の神嘗祭で最も重要視されている。それを主るトヨウケ大神は伊勢神宮の『延暦儀式帳』に「下宮に鎮座し給うウカノミタマノミコト」と記されている、五穀豊穣から実りある人生を導いてくれる神である。それを表したペンダント富饒(FUJOU)が最後に(株)クロスフォーからでた。