Jewelry sommeliere

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NY州立大学FIT卒業。 米国宝石学会鑑定・鑑別有資格(GIA-GG,AJP)。 CMモデル、イベント通訳コンパニオン、イラストレーターなどを経て、両親の仕事を手伝い十数カ国訪問。現在「美時間」代表。今迄培ってきた運命学、自然医学、アロマテラピー、食文化、宝石学などの知識を生かし、健康で楽しく感動的な人生を描くプランナー、キュレーター、エッセイスト、ジュエリーソムリエール(Jewelry sommeliere)

2024年11月4日月曜日

常陸国が誇るー進化する伝統工芸と匠の技ー展

                                                     常陸国が誇るー進化する伝統工芸と匠の技ー展   by crafteriart gallery 

 古来から日本人は、生活必需品を地域で取れる良質な素材を選んで一つ一つ心を込めて手作りし手入れをしながら長く使う風習がありました。昭和49年、経済産業大臣による「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」が制定されました。1、日常生活に使われる伝統的な原材料・技術・技法による殆どが手作業で製造されたもの。2、一定の地域に生産者が集まっていること。それに準ずるものは茨城県に 結城紬、笠間焼、真壁石燈蘢があります。なお、茨城県では知事による「茨城県郷土工芸品指定要領」(昭和62)があり、内容はほぼ同様で「5年以上県内において製造されいて将来に渡り継続が見込まれるもの」が加わります。


  本展では、日常生活のなかで育まれてきた日本人の知恵と熟練を要する伝統の技を継承しながら、他県ではあまりない独自のスタイルを追求できることにより進化を遂げてきた、常陸国(茨城県)の誇る匠の技をご紹介致します。特に県内の方々に「灯台下暗し」となっていると思われるそれらの素晴らしさを再認識するとともに周知して頂き、茨城県伝統工芸のさらなる発展につながると幸いです。


1、いばらき組子 安達克敏/将伍

昔から障子や欄間などの建具の装飾として用いられてきた組子細工の起源は飛鳥時代といわれ、日本最古のものは法隆寺の金堂にあります。組子は長い年月をかけて磨き抜かれてきた木工技術で、釘を使わずに細く引き割った木に溝・穴・ホゾ加工を施しカンナやノコギリ、ノミで調節しながら1本1本組み付けていく、わずかな寸法の狂いも許さない熟練した職人によって創り出すことができます。安達建具の三代目安達氏は長男とともに建具製作、デサイン組子製作も手がけ日本初となる立体的な組子(行灯)を発表しました。


2、笠間焼 大貫博之

笠間焼は江戸時代中期に始まり、恵まれた環境下で関東最古の窯を守りながら今日まで生活雑器を中心に生産しています。一方で、笠間の地は伝統や格式に縛られない日本でも有数の産地で、全国から陶芸家が移り住み各々の世界観を自由に表現できます。そのなかで、大貫氏はグラフィックデザイナー出身の経験を生かし、身近にある野の草花をモチーフにした線象嵌と色絵の技法を用いた「彩時器」、書道の筆の運びをイメージした「モノトーンの器」、最近では模様をつけた「白彩器」などを制作しております。


3、桂雛 小佐畑孝雄

 「桂雛(かつらびな)」とは、かつては徳川家の城下町として、建築職人や工芸職人などが住み着いた旧桂村(現城里町)より名前が付けられた雛人形のことです。この地は、明治中期頃から埼玉県・静岡県と並び代表的な雛人形の産地でしたが衰退が進むなか「桂雛」は、伝統ある雛人形を復活させると同時に昨今のニーズに応える雛人形作りをしております。通常は分業の雛人形の体部を一貫して手作りで製作するその製造法と技法が高く評価され、平成3年には「茨城県郷土工芸品」に指定されています。


4、大子漆(八溝塗) 辻徹

大子漆は圧倒的に透明度が高く上質で美しい艶が最大の特徴です。輪島塗や春慶塗など高級漆器の仕上げ用に使われたり、国宝建築の修復にも採用されています。辻氏は太子町に残る最高級の漆と漆掻きの文化を絶やすまいと一念発起し自ら樹液の採集を始めて「太子漆 八溝塗」を立ち上げました。現在は工房のスタッフと共に、漆の栽培から木地の製作・漆塗りまでの全工程を手がけています。その透明感や艶、使えば使うほどに味わい深くなる“本物”の良さを実感してもらいたく手頃な価格で普段使いの漆器を提供しています。


5、西ノ内町和紙 菊池大輔

 江戸時代から伝わる西ノ内和紙は、古くから和紙の原料である最高級の那須楮(こうぞ)を使用し、奥久慈の清らかな水で漉き出される国・県の無形文化財です。丈夫で水に強く防虫や除湿の機能性が高いことから四季を通じて最適な環境を保つ庶民生活の日用品として重宝され、徳川光圀が編纂した「大日本史」や商家の帳簿「大福帳」などに用いられます。その伝統を継承する「紙のさと」の四代目、菊池氏は那須楮の栽培から紙漉まで一貫して担う傍ら、強靭な紙の特性を生かした小物、インテリア作品なども手掛けてます。

 

6、本場結城紬 花田啓子/千裕

奈良時代、茨城県と栃木県にまたがる鬼怒川流域にて作られてきた結城紬は、手で紡ぎだした太糸の絹織物として朝廷に上納されます。鎌倉時代、領主であった結城氏の名から結城紬と呼称され全国的な知名度が高まり、のちに染法や、職人の高い技術を要する「経緯絣(たてよこかすり)」の技術が生まれ品質は向上。戦後、細かい糸を用いた絣は精緻化され軽量化が進みます。花田氏は、心地良く経年変化による風合いが魅力な絹織物の最高峰である結城紬を現代風にアレンジし、オリジナル作品を誕生させています。


7、水府(すずも)提灯 鈴木茂兵衛商店/ミック・イタヤ

水府提灯は日本の三大産地の一つです。提灯とは軽くて持ち運びが楽で小さく畳める照明器具のことです。江戸時代、水戸藩で土地の生産性の評価にあたる米の収穫量が大幅に下回り、窮乏化した下級武士らは自らの生活を支えるために提灯作りを始めました。その伝統的な技術を江戸時代から現代に伝える老舗が鈴木茂兵衛商店です。七代目鈴木降太郎氏は、新たな視点から照明器具とし現代の暮らしに対応できる提灯づくりに励み、ミック・イタヤ氏とのコラボにより「すずも提灯」を誕生させました。



 


ー進化する常陸国のお雛様と匠の技ー展


                                                  -進化する常陸国のお雛さまと匠の技- 展

                              

 かつては徳川家の城下町として建築家や職人が住みついた歴史ある茨城県の旧桂村(現城里町)は、雛人形「桂雛(かつらびな)」の産地ですが、近年に入り少子化にともなった衰退化が進んでいます。そこで、「桂雛」の現在三代目となる小佐畑孝雄氏は、先代から続く宮中ゆかりの雛人形を、伝統を守りつつ芸術性を追求しあらゆる人々が一年じゅう部屋に飾って楽しめる日本初となるインテリア・アートの『Hina Doll 』として甦らせました。小佐畑氏は、日本の伝統色・文様と平安時代の貴族の嗜みである十二単に使われた『襲色目(かさねいろめ)』を、Hina Dollの衣裳に取り入れ、壁掛アート作品としても表現しています。江戸幕府の贅沢禁止令により庶民は装いに地味な色を強いられたので人との違いを図り、茶色や鼠色を微妙に染め分けたことから「四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃひゃくねずみ)」という言葉が生まれました。その反動もあり人々は裏地に派手な色合いや絵柄を用いておしゃれを嗜みました。それを表地にした衣裳を纏うひな人形は粋を感じられます。「粋」とは、多彩に着こなす江戸っ子の姿を表現したものです。


 本展では、ユネスコ無形文化遺産に登録されている「結城紬」や京都の「西陣織り」、そしてフランスのアンティークレースなど、国内外の伝統的な衣裳を纏ったHina Dollのセレモニーやイベントに応じた飾り方を、伝統的なひな飾りとともに紹介します。目玉として、上皇后がお召しになった結城紬の着物と同じ反物で仕立てた着物とさらに、その結城紬を身に纏ったHina Dollも展示します。

 また、ひな飾りはさまざまな伝統工芸士の技が集結して舞台を演出するように完成されます。その背景に欠かせない屏風や台、灯りなどの大道具・小道具は、主に地元の職人たちによる「すずも提灯/水府提灯」「西の内和紙」「笠間焼」「大子漆」「かな料紙」「桐細工」「組子」などで作られています。それらを手がけた匠の技のオリジナル作品を展示するコーナーを設けています。


本展を通して、茨城県内で育まれてきた伝統工芸の美を堪能していただければ幸いです。


Evolving Hitachi Province’s Hina dolls and craftsmanship


The former Katsura Village (currently Shirosato Town) in Ibaraki Prefecture, where architects and craftsmen once lived as a castle town of the Tokugawa family, is a production area of hina dolls "Katsurabina", but in recent years, the decline has progressed with the declining birthrate.

 Therefore, Takao Kosahata,  the third-generation successor of "Katsurabina", has revived the hina dolls as the first interior art in Japan that can be enjoyed in rooms year-round, pursuit of artistry with tradition, from related to the Imperial Court. Kosahata incorporates traditional Japanese colors and patterns,  also  the “kasane irome” of  the twelve-layered ceremonial kimono from the the Heian period, into the costumes of Hina Doll, and also expresses them as wall-mounted artworks.

 Due  to the Edo Shogunate's ban on luxury,  common people were forced to wear subdued colors. To distinguish themselves,  they dyed subtle variations of brown and rat colors thus the word "Shijuhacha Hyaku Nezumi" (forty-eight brown, one hundred mouse colors) was born. With that reaction, people enjoyed fashion using flashy colors and patterns on the lining. Hina Dolls wearing such costumes not on the lining but outer surface, feels “Iki”. incidentally “Iki” represents the stylish and sophisticated fashion of the  Edo people.


The exhibition, will introduce Hina Dolls wearing not only traditional domestic such as "Yuki Tsumugi" registered as a UNESCO Intangible Cultural Heritage, and "Nishijin weaving" from Kyoto but also  French antique lace. And  how to decorate Hina Dolls according to ceremonies and events. 

The highlights of the exhibition are a display of kimonos made from the same Yuki Tsumugi fabric worn by the Empress, and Hina dolls dressed in the same Yuki Tsumugi fabric.

 

Furthermore, hina doll displays are completed with the skills of various traditional craftsmen as like produce a stage. Essential background elements such as folding screens, stands, and  lights are mainly made by local craftsmen, including "Suzumo (Suifu)Lantern",  "Nishinouchi Washi",  "Kasama pottery ",  "Daigo Lacquer", "KanaPaper", "Paulownia Woodwork", and "Ibaraki Kumiko. "  A special section will showcase the original works of the craftsmen. 


We hope you appreciate the beauty of the traditional crafts that have been nurtured in Ibaraki Prefecture.

週刊NY生活No.976 9/21/24' 宝石伝説80「日本の神々『宇迦之御魂神』3」53

   山梨と宝石「日本の神々『ウカノミタマノカミ(宇賀之御魂神)』3」53


『記・紀』にて存在が薄いイザナギノミコト(伊弉諾尊)の子、三貴神の1人ツキヨリノミコト(月夜見尊)が『日本書記』の神代紀にはじめて活動を見せる場面は、保食神のウケモチノカミ(伏見稲荷大社祭神の筆頭ウカノミタマノカミと同神)が現われ、その口からはきだしたもので、国・海・山から幾多の食物や蚕が生じ、穀物は田植えして蚕は口にふくんで糸をひきだしたところあたりだ。これは地上生活を送るうえで不可欠な農業と養蚕の起源に値する。ちなみに、繭を口の中にふくみ温めうるおして糸口を取り糸を引きだす原始的な製法は、日本最古の歴史を有する茨城県の結城紬の製法と一致する点が多い。さて、月の運行によって判断する太陰暦に基づく季節や天候による種まきや苗うえなど植物栽培の端緒を開いた「夜の食国(おすくに)を治める」ツキヨリノミコトを祖神として祀るのは、宇佐神宮(4万社ある八幡総本宮)を司る菟狭(うさ)族。古語にある「食国政申大夫」(おすくにまつりごとをもうす君)という名詞は、政務を天皇に申し上げる人のことで大臣をさしていう呼び名だ。皇室が先祖に対して祭祀をおこなう日本最高格の神社は「二所宗廟(にしょそうびょう)」といい、現在は伊勢神宮と岩清水八幡宮だが、奈良・平安時代までは宇佐神宮が伊勢神宮以上に重要視されていた宗廟で、聖武天皇の時代に奈良の大仏鋳造のさいや、皇位継承のときなどは宇佐神宮の託宣でものごとを決めていた。その宇佐神宮下宮にて毎日神饌米を炊き上宮に献げる御炊殿(みかしぎでん)を預っていたのは、伊勢神宮三神主の祖先神のアメノムラクモノの命で祭神はウカノミタマの神だ。

 ところで「崇神紀」によると諸事情によりアマテラスは宮廷の外に遷されたのち、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の二つからなる伊勢神宮に鎮座された。アマテラス大神がトヨウケ大神の神坐の前で調理された神田の御稲を食べる「宵明けの大御饌(おおみけ)」の儀は、伊勢神宮の神嘗祭で最も重要視されている。それを主るトヨウケ大神は伊勢神宮の『延暦儀式帳』に「下宮に鎮座し給うウカノミタマノミコト」と記されている、五穀豊穣から実りある人生を導いてくれる神である。それを表したペンダント富饒(FUJOU)が最後に(株)クロスフォーからでた。


週刊NY生活No.972 8/17/24' 宝石伝説79「日本の神々『宇迦之御魂神』2」52

    
山梨と宝石「日本の神々『ウカノミタマノカミ(宇迦之御魂神)』2」52


 ウカノミタマノカミ(宇迦之御魂神)は稲荷大神のご神名だ。稲荷の神像や絵姿に見られるように、女神が白狐にまたがり稲穂をかついでいたり稲荷の神紋が稲穂を抱き合わせた形になっているのは、稲に宿る神秘的な精霊を表し五穀をはじめ一切の食物を司る神を表徴している。キツネ(狐)は稲荷の本体ではなく眷属や神使いにあたり、宮中に奉仕する八神のうちのミケツカミ(御饌津神)を三狐神の字に当てたことにより古語であるケツネがキツネに転じた音便とのこと。稲荷の幟(のぼり)にハート形の火炎が描かれているのは、心臓が身体における生命の原動器官としてその根元をつかさどるものとみなすところから稲荷のシンボルマークとなっている。

 ところで、ウカノミタマは、スサノオ(須佐之男命)とオオヤマツミ(大山津見神)の娘であるカムオオイチヒメ(神大市比売)との間に授かった兄妹、オオクニヌシ(大国主命)に協力してスクナヒコ(少彦名神)とともに出雲建国・国土経営に大いに貢献したと言われるオオトシカミ(大年神)の妹にあたる。ちなみに要となる神々を次々と世に送りだしたスサノオは、初め誓により宗像三女神を誕生させたのち、最初の妻であるクシナダヒメ(櫛名田比売)との間には子孫で、やがて出雲大社の主神となるオオクニヌシを輩出している。ウカノミタマは、『古事記』では「宇迦之御魂神」、『日本書紀』では「倉稲荷魂命」と表記され、伊勢神宮下宮に鎮座し天照大神の朝夕の大御饌(おおみけ)を仕へ奉るトヨウケヒメノカミ(豊宇気比売神)でもあり、その職名はオオミケツヒメ(大御膳之神)という。五穀などを司るウケモチノカミ(保食神)のオオゲツヒメ(大宜都比売神)と混同されるが全く別の神である。また、そのトヨウケヒメは、イザナギ(伊弉諾尊)、イザナミ(伊奘冉尊)の夫婦時代の最後の子であるワクムスビノカミ(和久産巣日神)の子で天孫降臨の際、天下った神とされている。それはそうとして、『記・紀』は全般的に学者による神の表記の誤読もしかり、登場する神の付け足しや削除、時代錯誤が見受けられるなど当時の権力者による改ざんがあったと思われる。

さて。(株)クロスフォーから稲穂をモチーフにした黄金に輝くリング興隆(KOURYU)がでた。


週刊NY生活No.968 7/20/24' 宝石伝説78「日本の神々『宇迦之御魂神』1」51

   
 山梨と宝石「日本の神々『ウカノミタマノカミ(宇迦之御魂神)』1」51


 九州の大分県にある宇佐八幡宮は、全国の総本宮で八幡を掲げた戦の神様として多くの武士に信仰されてきた。伝承によると代々そこの祭祀を司ってきた宇佐家は、イザナギ(伊弉諾尊)とイザナミ(伊奘冉尊)が禊ぎをして化成した「三貴子」の1人、ツキヨミノミコト(月読命)を祖神として祀ったウサ(菟狭)族で占星術やさまざまな知識をもったシャーマンとして皆を導いてきた族長だった。さかのぼること約九千年前の早期縄文時代、ウサ族は山城国(現在の京都府中南部を占めた旧国名)の稲荷山を拠点として狩猟・漁労・採取の生活を営み、原始菟狭国を作るとともに、食生活守護の神、生命エネルギーの根元、すなわち生きとし生ける総てのものを育成する生命本体の神としてウケモチノカミである伏見稲荷大社五つの祭神の筆頭にかかげるウカノミタマノカミ(宇迦之御魂神)を稲荷山のミムロ(御室)に祀った。その後、約八千年前ごろ、シベリア系種族で原日本人とされる猿田族が勢力を拡大し南下して、ウサ族はその地から追放され稲荷山は原始猿田国となり、ウカノミタマのほかに猿田族の祖神サタヒコノオオカミを祀った。その一方で、追いやられ分散していったウサ族が移住した地域のなかでも阿岐国[安芸国](あきのくに)の多祁理宮(たけりのみや)は生活上立地条件にも恵まれ、約六千年前ごろから古代菟狭国の拠点となっていく。その後、現在の場所に移ったのは約千四百年前といわれ、最初に鎮座したのは宗像神社の三女神(朝鮮半島に由来する航海の神)が最も古く、のちに皇室神である応神、神功皇后を迎えたと考えられている。さらに北九州から宇佐地方にやって来た渡来人は、大陸の先進文化による土木、製鉄、製錬などの技術にたけ、得意の土木技術で平野部を中心に田畑や水路網を開発し、金属を扱う技術で例えば東大寺の大仏を造る際に力を貸して朝廷と結びついていく。

 ところで、ウカノミタマのウカとは食物のことで稲荷(大神)のこと。ミタマのタマ(魂)は生命力そのものを指すことからウカノミタマとは、宇宙生命の本体エネルギーであり米作が伝来したころに生じた称号つまり、いいなり(飯成)がつまった呼び名で、コメは、ムギ・アワ・ヒエ・マメのなかでも1番上等なものであることから五穀の神となったという。

 さて、(株)クロスフォーから稲穂をモチーフにしたペンダント興隆(KOURYU)がでた。

週刊NY生活No.964 6/15/24' 宝石伝説77「日本の神々『櫛名田比売』4」50

     
 山梨と宝石「日本の神々『クシナダヒメ(櫛名田比売)』4」50


 「記・紀」によると、高天原からきた天津神が地上の国すなわち日本列島の主権をスサノオ(須佐之男命)とクシナダヒメ(櫛名田比売)の子孫である国津神のオオクニヌシ(大国主命)から受け継いだ葦原中国平定を「国譲り」と呼ぶ。これを天孫降臨神話に繋げて天皇家の日本列島支配を正当化させたようだ。それにより武力で迫られ支配権を渡した元の主人公の社(やしろ)は、辺境にあたる出雲郡に建てざるを得なかった。さらに天皇に忠誠を誓う意味で、代替わりごとに朝廷に参向して『出雲国造神賀詞 (いずもくにのみやつこかむよごと)』を奏上する儀礼を行ってきた。第83代千家尊祀(せんげたかまさ)は、国造を継いだ翌年の1948年6月、宮中に参内して出雲玉造産の御統玉(みほぎたま)三種一連を献上し古代以来の神賀詞奏上を行っているが、日本にこのような威勢をふるう氏族は他にはないという。天皇家以前に日本の覇権を握っていた出雲勢力は、大和朝廷とは別の勢力で天照大神を頂点とする天皇家の神社とは別扱いなのだ。そして現在に至るも出雲大社は、天皇陛下でさえ本殿内に入れないしきたりがあるという。ちなみに、2000年、出雲大社の境内から巨大な木柱痕が出土し、伝説とされてきた高さ48メートルの古代の社が存在したことの信憑性が高まっている。出雲自体はスサノオの土地であり、現在は子孫のオオクニヌシが出雲大社の祭神で、拝礼(古来の儀礼にのっとった、ニ礼四拍手一礼)すると本殿の奥に社があり祀られているスサノオを崇拝する構造になっている。なお、神有月に出雲に集まるのは国津神であり天津神は行かない。 ところで、国譲りでニニギ(瓊瓊杵命)が出雲国に降臨したという一方で、高天原からニニギが天孫降臨したのは筑紫の日向の高千穂とされる説があるが、古代の「日向」とは宮崎と鹿児島を含む広域を指し、サクヤヒメ(木花佐久夜毘売)と出会った笠紗の岬が気に入り定住の地と定めたことから後者が有力の地であることしかり、さらにはニニギ~山彦~ウガヤフキアエズ3代の陵は、宮内庁によって鹿児島県内に治定されている史実もあるのだ。ニニギノミコトが、長い時を経て2度も遠く離れた地に天孫降臨したことには正直、矛盾を感じる。

さて、クロスフォー(株)から櫛名田比売をイメージした稲穂のペンダント実り(MINORI)がでた。

週刊NY生活No.960 5/18/24' 宝石伝説76「日本の神々『櫛名田比売』3」49

     
 山梨と宝石「日本の神々『クシナダヒメ(櫛名田比売)』3」49


 神話によると、スサノオノミコト(須佐之男命)によるヤマタ(大勢)のオロチ(高句麗族)の退治が始まるや、クシナダヒメ(櫛名田比売)はスサノオの神通力により湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に変えられ、スサノウの髪に押し込まれた(櫛名田比売の名の由来)。そしてスサノオは、彼女の両親に用意させた酒槽(さかぶね)によりオロチ族を酔わせて隙をうかがい彼らを狙い撃ちする。その作戦にでたのは、スサノオの握っていた銅製の十束剣(とつかのつるぎ)がオロチ族のもつ鉄剣には勝ち目がないと判断したからだ。権力の象徴である鉄製の『くさなぎ(草薙)の剣』をオロチ族から手に入れたことは、やがて権威の伝達を意味する皇位継承の儀式につかう3種の神器(天孫降臨の際にアマテラス(天照大神)がニニギ(邇邇芸命)に授けた宝物の一つとなる大きな意味合いをもつ背景となっている。スサノウがヤマタのオロチを退治してクシナダヒメを妻に迎えて出雲国須賀の地に宮殿を造り住みはじめたころ、大地から雲が湧き立つのを見て『八雲立つ 出雲八重垣 妻隠(ご)みに 八重垣つくる その八重垣を』と詠んだ歌は日本において初の和歌となった。まもなくスサノオとクシナダヒメの二神は、まぐわいによってヤシマジヌミノカミ(八島士奴美神)を生む。この神は、やはりオオヤマツミ(大山祇神)のもう1人の娘で、ニニギの妻となるコノハナサクヤヒメ(木花佐久夜毘売)の姉妹のコノハナチルヒメ(木花知流比売)と結婚し、やがてその子孫が出雲の神々の中心をなすオオクニヌシノミコト(大国主命)となる。

 その古代出雲王国があらゆる大陸文化の上陸地であり大和国に先立つ先進国であったことは『記・紀』の神代条に五穀や蚕の発祥が豊葦原の中津国=出雲国と書かれていることが証明している。さらに、出雲勢力の政祭一致の支配者は、須佐之男命・大国主命・事代主神(大国主命の息子)などのクニノミヤツコ(出雲国造)らで出雲大社の神官家(千家氏)に継承されるていく天照大神系の天皇家より古い時代の日本の土地神=「国津神」だ。一方で、 天孫降臨した天照大神を頂点とする神々は、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮などに祀られている「天津神」という。

さて、クロスフォー(株)から小さな櫛に姿を変えた櫛名田比売をイメージしたピアス豊穣(HOUJOU)がでた。