『わりなき恋』を読んで
物語は、ヨーロッパを中心とする諸国を舞台に、人道的視点でそれぞれの文化や、歴史的変遷を分かりやすく映画で繋いでいく優秀なドキュメンタリー作家の伊奈笙子と、出発ぎりぎりで乗り込んできた、還暦前の、世界中を飛び回るエリートサラリーマン、九鬼兼太との成田発パリ行き飛行機のファーストクラスで隣り合わせになったことから始まる。
長距離のフライトでは、誰もが狭い機内のわずかながらのプライベートと開放感を期待して、隣が空席であることを願うが、笙子もその一人だ。ところが、突如隣席を占領した兼太の旅慣れたスマートな振る舞いに、笙子は不意をつかれる。現在形から始まった二人の会話はいつしか世界情勢や文化的な共通点へ発展してゆき、到着前には連絡先を交わすまでの現在進行形に変化していた。
その後二人は、多忙なスケジュールの合間をぬって逢瀬を重ねていく。そこには、笙子の奥ゆかしい凛とした日本女性の根っこを感じさせる建前と、恋愛大国パリ生まれを匂わす本音が見え隠れする。古希を迎えようとする彼女に何度も訪れる迷いと悩み。そのたび自問自答する時に、本音の部分を語るもう一人の笙子では?と憶測してしまう、友人の砂丘子が登場する。
未亡人笙子の、一回り年下で妻子持ちの兼太との、理屈や分別を超えたどうしようもない「わりなき恋」は、女としてデクレッシェンドする灯火に、拡散燃焼を起こした。燃え尽きようとする寸前の、乱流を伴った妖艶な明るさが加速していく。その反面、お互いの修正も矯正もできない、確固とした道のりがすでに出来上がっている現実から、笙子のこころの奥底は、光を発していない温度の低い炎の中心のようだった。
結果的に、二人の最後の小旅行になったのが、笙子のリクエストでもあった、ウイーンにあるヴェルヴェデール宮殿にクリムトの絵を見に行くことだった。
「接吻」「ダナエ」に代表されるやクリムトの描くエロティシズムの世界は危険な官能美の世界に溢れている。描かれている女性は、性的感情に満たされ、自らエロスに支配されることにより、身にまとってきたものすべて取り払い、自らの本能を通じて、純粋に真の自分自身を感じているように見える。
作品の前で、無言のままじっと見つめる笙子。まるで、描かれた女性に自分を重ねるように。
笙子は「デラシネ」を、引っこ抜いた根無し草と訳すことに前から反発を感じていた。それは、家庭という根を下ろすところは無くても、浮き草のようにみずみずしく生きていく選択もあるからだ。
気持ち良さそうに人生を謳歌しながら漂う、女の性を包括する魅力溢れる人間。そんな笙子に最後まで翻弄されたのは、兼太だけではない。私たち読者だ。